2022年4月5日火曜日
4/5(火) 22:06
デイリースポーツ
パリ在住の中村江里子「インフルエンザ」で39・5度高熱 5日間寝込む
パリ在住のフリーアナウンサー・中村江里子が5日、インスタグラムを更新。次女とともに「インフルエンザ」で寝込んでいたことを明かした。
雪が降った4月1日から5日まで、「ベッドの中で唸っていました」「8年ぶりにインフルエンザに」と明かした。
次女は寒い日に水泳の練習をすると、「咳や鼻の調子が悪くなることがある」ことから、いつものことだと思い、「マッサージしたり、大丈夫よ!って言いながら抱きしめたり、キスしたりしていた」ところ、「インフルエンザだった」そうで、中村も罹患。「3日間は水しか飲めず、38.5度から39.5度を行ったり来たり」と高熱を発症して夜はうなされ、苦しんだという。
「今日やっと立ち上がり、服を着て、家事スタート」と5日になってやっとベッドから出て家事をすることができたことを報告した。
「フランスは公共交通機関、医療機関以外はマスク義務がなくなりました」というが、次女は学校でもマスクをしていたそうで、「今、インフルエンザ、咽頭炎、胃腸炎や他にも色々蔓延しているらしい…再度、気を引き締めなければ!!」とつづった。
「辛すぎる」5日間で、家の中は「カオス」になったが、フランス人の夫が「頑張ってくれた」と感謝していた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/471d68be1380bd2a4df109ae18658298b96a7bb1
【中村江里子、母のワクチン接種の予約で涙「本当に大変」】...
リバーシブル、実は!!!
私自身は、接種直後、15分間、会場で様子を見るのですがその時からあくびが出始め・・
帰りの車の中では(幸い彼が運転していました)あくびが止まらず・・大した距離ではなかったのに途中から寝ていました・・・
帰宅すると、とにかく身体がだるく、寒気が。
家事をすることはできるのですが、片付けている最中に「ちょっと座らせて」って、ふう〜〜って言いながら椅子に腰掛ける感じ。
だるいので、ベットに横たわるのですが、寒気がするので厚手のセーターやニットケープを着たままベットへ。
そんな状況がまる2日間。動くことはできるけれども、かなり体が重い・・。
でも3日目には何事もなかったように元気に。注射した左腕だけは1週間くらいなんとなく痛かったかな?
寝返りを打って、注射をした左腕が下になった時には痛みで目が覚めました。
一緒に接種をした彼は・・・全く問題なし。腕の痛みがちょっと・・だけでした。
人それぞれ接種後の体調は違うようですが、私は家族や友人には接種日の後、2・3日はハードスケジュールにしないように!!って伝えています。
体調の変化で仕事を休まなければならなかったり・・・そういったストレスになる状況を一応、避けておいた方が良いかな?と。
https://hochi.news/articles/20220111-OHT1T51027.html?page=1
リバーシブルじゃなかったりして・・・・
原胤昭が書店として創業したが、横浜にて外国人払い下げのオルガンを入手したことをきっかけに創業。その後は音楽関係の事業を現在まで行っている。原胤昭から現在の中村家が十字屋を譲り受けた形である。
現在は、銀座と吉祥寺にハープとフルート、ウクレレの音楽教室である「銀座十字屋ハープ&フルートサロン」、多目的ホールの「十字屋ホール」、ハープやフルートの楽譜や備品などを販売する「銀座十字屋オンラインショップ」を運営している。 2013年11月、銀座4丁目にハープのフリータイム制専用の教室「銀座十字屋ハープ&フルートサロンhanare(はなれ)」をグランドオープン。
2007年(平成19年)よりイタリアのサルヴィ・ハープの輸入総代理店になった。
2013年(平成25年)より社名を十字屋から銀座十字屋に変更した。11月、銀座四丁目に3店舗目となる「銀座十字屋ハープ&フルートサロンhanare」をグランドオープン。
2014年、銀座十字屋創業140周年を迎える。
沿革
- 1874年(明治7年) - 原胤昭が聖書類輸入のため、銀座レンガ街区の銀座三丁目に十字屋書店を開業。十字屋の商号の由来は、創業当初のキリスト教の影響を強く受けた経緯による。
- 1945年(昭和20年) - 戦災により銀座本店社屋が消失。
- 1986年(昭和61年) - 現在の十字屋ビルが完成。地上9階、地下1階。9階には多目的ホールの「十字屋ホール」ができる。
- 2006年(平成18年) - 銀座十字屋ハープ&フルートサロンを十字屋ビル8階にリニューアルオープン。
- 2008年(平成20年) - 「銀座十字屋オンラインショップ」を開始。東京都武蔵野市吉祥寺に2店舗目となる「銀座十字屋ハープ&フルートサロン吉祥寺」をオープン。生徒数の増加に伴い、銀座十字屋ハープ&フルートサロンを増床。
- 2013年(平成25年) - 商号を株式会社銀座十字屋に変更。11月、銀座四丁目に3店舗目となる「銀座十字屋ハープ&フルートサロンhanare」をグランドオープン
十字屋映画部
1920年代の半ばに、9.5mmフォーマットのカメラや映写機を十字屋楽器店として。販売するようになる。また、既製品の9.5mmプリントも販売された[1]。1930年代になると、独自に設計した純国産16ミリサイレント映写機を小学校向けに販売するようになる[2]。
1934年(昭和9年)、小学校理科の教材映画の製作を開始した[2]。映画教育の先進校として知られる東京市芝区赤羽小学校(現在の港区立赤羽小学校)の理科担当訓導の太田仁吉が協力するようになり、同年入社[2]。このシリーズは後に『理科映畫大系』に名前を変え、1939年(昭和14年)までに25編が製作された[2]。同年、国民新聞ニュースのカメラマンとして、鈴木喜代治が入社した。さらに、1938年(昭和13年)には、カメラマンとして、小林米作が入社。このスタッフで『細菌物語』(1941年(昭和16年))といった科学映画がつくられた[2]。さらに、演出の奥山大六郎らが加わり[2]、アニメーターの田中喜次が1939年(昭和14年)に入社した[3]。
株式会社銀座十字屋(東京都中央区)の企業詳細 - 全国法人リスト
原 胤信(はら たねのぶ、天正15年(1587年)-元和9年10月13日(1623年12月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての旗本、キリシタン。原胤義の嫡男。幼名は吉丸。洗礼名はジョアン。受領名が主水助であったために、原 主水(はら もんど)の名で知られている。
生涯[編集]
千葉氏の筆頭重臣であった原胤栄の孫として臼井城で生まれる。生後間もなく、父・胤義は後北条氏の人質となった千葉重胤に随従して小田原城に入る。ところが、豊臣秀吉の小田原征伐の最中に祖父・胤栄が急死、父も敵軍に包囲された小田原城に籠城していたため、4歳の吉丸に代わり同族の原邦房が臼井城城代として同城に入った。だが、間もなく豊臣軍に囲まれた臼井城は落城し没落。父は千葉氏の後北条氏への加担責任を追及されて失踪する(自害したとも出奔したともいわれるが不明)。
その後、名族出身である事から徳川家康により小姓として召しだされる。慶長5年(1600年)、大坂でモレホン神父から受洗し、キリシタンとなった。慶長8年(1603年)、走衆の頭となり、慶長12年(1607年)から駿府で家康のそばに仕え[1]、若くして御徒組頭や鉄砲組頭に抜擢されている。
ところが、慶長17年(1612年)の岡本大八事件を機に江戸幕府は本格的なキリシタン弾圧を開始し、キリスト教を信じる旗本に対しても棄教が命じられた。胤信はこれを拒んで岩槻藩に住む親族の元に出奔して現地で秘かに布教を続けた。しかし、慶長19年(1614年)に藩主高力忠房によって捕らえられて棄教を迫られるものの、胤信はこれを拒んだため、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で元和元年(1615年)に追放された。
胤信はその後も布教活動を続け、江戸・浅草のハンセン病患者の家を拠点とするが、後に密告によって捕らえられ、元和9年(1623年)に宣教師ら47名とともに江戸市中引回しの上、高輪の札の辻(高札場)にて火刑に処された。死の直前に「私がここまで苦難に耐えてきたのは、キリストの真理を証明するためであり、私の切られた手足がその証である」と述べたと伝えられている。なお、彼の処刑は、徳川家光が将軍職を徳川秀忠から世襲しても、禁教の方針が不変であることを示すための示威行為でもあった。
なお、明治初期のプロテスタント信徒の原胤昭は、胤信の大叔父・胤親(胤栄の弟)の子孫にあたり、後に原宗家の断絶がキリシタン弾圧のせいであることを知って、その功績を伝えることに尽力している。
>主水(もんど)
読めるわけがない
>「ワールドワイド」な統一教会の光り輝く資金源
海外で日本から空輸されてきたとされる魚なんて食うもんじゃない
http://tokumei10.blogspot.jp/2018/01/blog-post.html
し、「海外にて日本以外で獲った魚」も統一教会にカネが行くことになる恐れがあるので食うべきじゃない。
主水(もんど)といえば必殺仕事人
いわば、かたき討ち
「「モン」テクリスト伯
「富岡」八幡宮の最寄り駅は「モン」前仲町
富岡八幡宮殺人事件が兄妹心中なら
山崎ハコバージョンで兄の名はモンテン
3.カウン・ヴィセンテ (1580?~1626) 가운 비센테
カウン・ヴィセンテ (Kaun Vicente)は、長崎の西坂で火あぶりの刑を受けて殉教した朝鮮出身のキリシタンである。
カウンは名で、ヴィセンテは洗礼名である。カウンは「権」(クォン)という苗字だとする説があるが、筆者は『遥かなる高麗』(J.G.ルイズデメディナ著、近藤出版社 1988年発行)に従い、カウンは名という説を採用する。『遥かなる高麗』には次のように記載されている。
「 Kaun 一 どの写本でも Caun として綴られている。これはビィンセンテの名でもあるし、数名の高麗人著述家の考えと異なって、姓ではない。彼らは根拠なしに一音節の Kwon [権] に変形する。カウンは韓国の純粋な熟語で、ソウルの南東、半島の中部にある町の地名
[佳恩] でもある。この美しい意味の二文字からも、人名として考えられる。もしその少年の名前が[権] であったなら、当然 Kwon と発音した筈である。それを聞いたヨーロッパの宣教師たちは、Kwanbaku 関白や Kwanto 関東 あるいは Kwotei 皇帝 Kwomon 黄門 を耳
にした時に Quambaco、Quanto、Quotei、quomon と書き記しているように、確かに Caunではなく Quon と表記したであろう。しかし、写 本には例外なく、現在の発音では Kaunに当る Caun と記されている。」
さて、多くの朝鮮人捕虜が日本軍から捕らえられたのに対し、このカウン少年は首都 漢城占領中に自ら小西行長の軍に出頭している。
そして、小西行長の武将の一人で、行長とは親類でもある日比屋兵右衛門ヴィセンテから保護をうけ、九州天草の彼の領地である志岐(現在の熊本県天草郡苓北町志岐)に連れてこられ、志岐の教会長 ペドロ・モレホン神父(Pedro Morejon, 1562-1639)から洗礼を受けた。そして保護者 日比屋兵右衛門と同じヴィセンテという霊名がつけられた。
モレホン神父は1590年7 月に天正遣欧使節の4人の少年と共に長崎へ上陸した後、大阪、京都など日本国内で布教活動を行った。
1614年(慶長19)に宣教師追放令によって日本を去り、後に、『日本におけるキリスト教に対する迫害』という書物を著している。
カウン・ヴィセンテはこのペドロ・モレホン神父から養育され、成長したのであるが、モレホン神父は1627年3月31日付けの書簡でカウン・ヴィセンテについて概略を書き記している。その全文は次のとおりである。
(1)宣教師が紹介するカウン・ヴィセンテの経歴 -1) -ペドロ・モレホン 1627年3月31日付け書簡-
「 第二は高麗生まれ、3,000の兵の偉大な隊長の息子、わが修道会のヴィセンテ・カウンであります。戦乱のとき、高麗国王は日本人が王国に侵入して来たことを知り、首都を立ち退いて産地へ逃れました。その折、ヴィセンテの父親も家族全員と共に国王について行きました。[その後] 日本人は王宮と市を占領しました。
ヴィセンテは12~3才でした。自由の身で安全な状態でありましたが、神が優れた御栄光をお定めになったので日本軍を遠くから見た時に、心のなかに神の恵みを感じて日本軍について行きました。守護の天使が彼を日本軍の総帥ドン・アグスチノ [小西行長] の陣営に導き、その親戚の者が天使のようなその少年の身を引き受けました。
その後、[その親戚の者は] 日本へ戻ったとき、この少年を志岐の島の教会へ引き渡し、少年はそこで洗礼を受けました。また、文字は支那と同じですが、高麗の言葉とは全く違う日本語を学びました。そして教理の良き説教者となりましたが、徳が高くて天分に恵まれた少
年でもありました。
それで、彼は同国人のために大いに役立ちましたが、彼らは後に自分たちがキリシタンになり信仰を守ることが出来たのはヴィセンテから受けた恩恵である、と語りました。[彼は] 日本人に対しても同じ働きをしました[・・・]。
彼の受洗は1592年の末で、諸パドレは何年間か彼の秀でた才能を見て、このヴィセンテと他の1人を案内兼通訳として高麗へ渡ろうと努力しましたが、戦いの結果不可能となりました。高麗は日本に対して再度出兵してくれた支那と密接に結ばれていたので、パドレたち
は首都・北京へヴィセンテを派遣し、彼はそこに殆ど7年間われらのパドレたちと共に滞在しました。その地の言語や学問をよく学び、支那からの経路によって高麗へ入ろうとしましたが、機会がありませんでした。
それでパドレはヴィセンテに支那人の服を着せて再び日本へ派遣し、日本にいる支那人を改宗させ、同時に高麗人や日本人をも霊的に援助できるか否かを見ようとしました。しかし支那人は支那大官の命令に違反して日本に来ているので、彼を信用しませんでした。
翌年パドレたちは、彼が能力があり徳も優れているので、ヴィセンテが[支那人から]スパイと疑われていることを憂慮して、彼をイエスス会に迎え、改めて支那へ派遣するために、マカオへ戻しました。
その後、日本のパドレが強く要望したので、彼は1620年に日本へ戻り、この最後の6年間パドレを熱心に援助しました。
私は彼の遍歴と働きを詳細に述べましたが、それは彼の聖なる熱意および諸パドレができる限りの手段を尽くした結果、それに彼が如何にイエスス入会と殉教の栄冠にふさわしい人物であったか、ということを知っていただくためです。
彼は常に徳に優れ、謙虚で努力家でした。捕えられて前述の苦しみに絶え、牢獄内では人々の修練者の指導神父[のよう]になっていたので、彼らから深く愛されました。
彼は自分の遍歴に関して、信仰の熱意と殉教への希望に満ちた手紙を書きましたが、長くなるのでこれは省略します。
46才で死去、そのうちの33年間は私たちの家にいました。」(『遥かなる高麗』292~293貢)モレホン神父はカウン・ヴィセンテの死後、カウン・ヴィセンテから昔聞いたことを思い出して書いたようであるが、カウン・ヴィセンテの父親
は3,000人の兵士を率いて戦った両班であった。両班とは朝鮮時代の貴族をいい、文班と武班があった。カウン・ヴィセンテの父親は武班すなわち、武官であった。3,000人の兵士を率いる武官であればかなり高級な武官だったと思われる。
カウン・ヴィセンテがモレホン神父から洗礼を授けられたのは1592年12月のことで、翌1593年頃に修道士育成のための初等教育機関セミナリヨに入学した。1591年に天草の志岐にセミナリオが設置されており、カウン・ヴィセンテはここで学んだものと思われる。セミナリオでキリスト教教義の他、日本語と中国語も学んだ後、伝道師や説教者として活動した。
1612年に中国の北京に派遣され、そこから朝鮮へ入って布教しようとしたのであるが、入国できず7年間北京に滞在している。1919年にマカオを経由して日本に戻ったが、再びマニラへ派遣され、1620年に日本へ帰国した。
そして、1622年に長崎へ行き、長崎在住の中国人に布教活動を行った後、島原半島の有馬地方でイエズス会のイタリア人宣教師 ジョアン・バウチスタ・ゾラ(Giovanni Battista Zola(157576-1626)神父とともに布教活動に邁進した。ゾラ神父は有馬で「こんふらりあ」という組を組織したという。当時の「こんふらりあ」の様子について、狭間芳樹氏は『キリシタン信仰におけるマルチリヨと「個」についての一考察』で次のように紹介している。
「こんふらりや」は、二十人ずつの組衆を一単位として持つ一組織であり、毎日曜日と大きな祝日毎に集まることになっていたが、目立たないように毎回別の家で集まり、また一切の騒々しいことを避け、皆が一緒に飲食することも禁じられていた。
また、「こんふらりや」では、最初に皆で、天使祝詞を十回唱え、玄義について繰り返し黙想を重ねた後で、宗教的な講話や霊的な読書を行い、その後組内での宗教上の問題はもちろんのこと、困難な事象に対する打開策、病者や貧者の世話などについて
も話し合われ、最後にもう一度、死者のための「おらしよ」と天使祝詞を五回祈るよう定められていた。
(アジア・キリスト教・多元性 現代キリスト教思想研究会 第6号 2008年3月 39~56貢 )
1625年12月22日、カウン・ヴィセンテはジョアン・バウチスタ・ゾラ神父とともに、密告によって島原半島の口之津で捕えられ、島原の牢に投獄された。また、同じ頃、1621年にイエズス会日本管区長となったポルドガル人宣教師のフランシスコ・パシェコ神父も口之津で転びキリシタンの密告によって捕縛され、島原の牢に投獄されている。カウン・ヴィセンテはこの獄中に、同じ牢にいたパシェコ神父からイエズス会の会員として受け入れられている。
『日本切支丹宗門史』(レオン・パジェス著)には、カウン・ヴィセンテは「賀兵衛(カヒョーエ)修士」と記載されている。また、同著によると、この時、島原の牢に入れられていたキリシタンの数は25人であったという。
この島原の牢獄で役人から拷問を受け、棄教するよう迫られるのであるが、拷問に耐えて棄教しなかった。ここで、日本イエズス会副管区長 マテオ・デ・コウロス神父の命令で獄中にカウン・ヴィセンテが自分自身のことを書いた書簡を紹介することにする。
この書簡はジョアン・ロドリゲス・ジラン神父が1627年3月24日付けでマカオで書いた書簡の中に収録されているものである。
(2)カウン・ヴィセンテ本人が書いた自身の経歴 -ジョアン・ロドリゲス・ジラン 1627年3月24日付け書簡より-
「 貴方様の命令でこれを書きます。
僕(しもべ)は1592年に高麗から日本に来て、その年の12月に教会に入り、以後神のお恵みによって33年余り、これに所属してまいりました。子供のときから聖人伝や栄光の殉教者の死の話を聞いて、ある時は隠者になろうという希望をもち、またある時は神 の愛のため生命を捧げようと思いました。
(中略)
この拷問の期間が過ぎると、裁判官たちは僕を呼び出し、同じく管区長パドレとエルマノ(イルマン)・ガスパル・[・サダマツ]の小者2名も呼び出しました。僕は寒さに震えながら牢を出ました。呼び出した理由は僕たちのことを殿(島原藩主・松倉重政)に報告するためでした。
彼らのいる所へ行くと、ほかに書き手がいないので僕に書けと命じました。しかし僕は冷え切っていたし風にさらされて、全身が震えていました。これを見て殿の家来が、僕に着物を着せて暖めなければ書くことは出来ない、と言いました。裁判官らはこれを聞くと、
僕に冬の衣類を与え火で体を暖めさせました。暖をとり元気を取り戻して、僕は彼らが細かい指示を与えながら命じた通りのことを書きました。それは次のとおりです。
『 僕、イエスス会のパドレ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラの同宿ヴィセンテは、高麗王国の首都の生まれです。13才の時に小西平右衛門という摂津守アグスチノの家来と一緒に日本に来ました。その年、志岐の島でキリシタンになり、教会に入って数多の
土地でその手伝いをしました。
33才のとき支那へ行って、そこに7年いました。42才で日本へ戻り、追われているときにパドレ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラに会って、11月23日にパドレと共に捕えられました。 』 (『遥かなる高麗』296,301貢)
カウン・ヴィセンテは11月23日に捕えられたと書いているが、12月22日の誤りである。
次に、ジョアン・ロドリゲス・ジラン神父が1627年3月24日付けでマカオで書いた書簡の中でカウン・ヴィセンテのことを述べているものを以下に紹介する。
(3)宣教師が紹介するカウン・ヴィセンテの経歴 -2) -ジョアン・ロドリゲス・ジラン 1627年3月24日付け書簡-
「 [私たちが] 初めはカウン、後に俗人の服を着ていた時にはカヒョーエと呼んでいたエルマノ・ヴィセンテは、高麗の高い身分の生まれです。日本人が高麗にしかけた戦いで、一キリシタンの捕虜となって日本に連れて来られ、志岐のわれらの教会に捧げられ、そこで13才の時に [導かれて] 洗礼を受けました。
優れた天性を有し、死ぬまで神への奉仕を続けようという希望を示していたので、同宿として受け入れられ神学校へ送られました。
そこで私たちの文字と日本の文字とを習得しました。それに偉大な能力を示したので、われらの聖信仰の内容の主要な要綱を学ぶことになり、彼の同国人に説教するに至りました。彼と同じように捕虜になった大勢の人々に教理を説いたので、その者たちはキリシタンになりました。日本語を充分に覚えてからは日本人にも説教をし、彼の教理の説明と立派な模範によって、大勢のパドレの布教を救け、彼と交渉のあった人々を満足させました。
上長等は、高麗王国に布教の扉を開こうと希望して、彼を一パドレと共にかの地へ行かせようとしました。しかし日本からの道によって、その扉を開くことは如何に努力しても不可能でした。そこで、次に支那から道を開こうとしました。そのためにこのヴィセンテをかの地へ
派遣しましたが、これも効果はありませんでした。
ヴィセンテは支那の言葉と文字を学んで日本に戻りました。長崎に住んでいる支那人や毎年商品を持って来る支那人に説教をし、霊の援助をするために、彼は支那人を装っていました。
しかし彼らは支那の法律に違反して日本に往来し、あるいは居住しているので、ヴィセンテが支那の大官から派遣された密偵で、自分たちの身分を暴いて処罰するのではないかと疑い、用心をして彼を避けました。こうした経緯の後、上長たちは、彼に非常に満足していたので、エルマノ(修道士)として入会させ、支那のイエスス会の住院の何れかで手伝いをさせるために、再び彼をマカオへ送りました。
しかし試練を経た徳の高い説教者が日本で不足しているのを見て、また彼を日本へ戻しました。
日本に到着した時 [ヴィセンテ] は、日本の服を着ていました。キリシタンの世話で諸処のイエスス会士を援助し始め、最後には島原でパドレ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラを手伝っていて、パドレと共に逮捕されました。
彼は非常に謙虚で信心深く特に忍耐強くて、苦行・禁欲に励み、あらゆる方法でその努力をしました。言葉に慎重であったので、誰をも傷つけたり、つまずかせたりすることがありませんでした。要するに、数多の徳をも備えていて、何処においても高徳の模範的人物と見られていました。
牢内においては前に述べたように、とくに立派な模範を示したので、イエスス会にエルマノとして迎えられた高麗人の中の第一番目の者(誤り。一番目はガヨである。)にふさわしく、そこで46年の栄光の一生を終えたのです。」 (『遥かなる高麗』306~307貢)
(4)カウン・ヴィセンテの拷問の様子について -ジョアン・ロドリゲス・ジラン 1627年3月24日付け書簡-
「 僕(しもべ)たちは、城内の要塞へ連れて行かれました。役人が来て僕たちにいくつか質問をした後、彼らの長・主水(もんど)が僕にエルマノ(イルマン 修道士)かと訊ねたので僕は、否、同宿であると答えました。僕が偽っている、と [彼が] 言ったので、僕は真実を申し上げていると答えました。
(中略)
棄教した何名かが署名した紙を見せて、同じようにせよと言いました。僕は、他の人の棄教は問題にはしない、他人が棄教しても自分はしない、と言いました。
その時主水は、拷問によって僕にキリシタンをやめさせる、と言いました。直ちに小姓を呼んで、僕を拷問にかける道具の準備ができているか、と訊ねました。小姓たちが、間もなく準備ができるでしょう、と言いました。彼は鉄の釘抜きを持って来させて、神の教えを棄てるか、とまた訊ねました。僕は、今日百才になったと考え、人生最後の日と思っている、とすでに申し上げた。如何に自分を苦しめても、棄教だけはしない、と答えました。
役人は鉄の釘抜きを持って、僕を部屋の真中におきました。人々は、小者が拷問を恐れていたので叱りました。そして僕を中庭に連れ出し、帯の縄を解いて地面に倒し、6人の男が僕を押さえて右手を取り、指と腕を釘抜きで強く締め付け始めました。そうしながら、棄教するかと言うので、僕は否と二度答えました。
中庭に出される前に僕はわが霊と体を神に捧げて、In manus tuas Domine commendo spiritum meum (「主よ、御手にわが霊を委ねます」-ルカによる福音書23の46-) と言いました。そして、神の広大で佳良な慈しみを体験しました。それは指と腕を残酷に締めつけられた時に、何の痛みも感じなかったからです。ただ手が眠っていて少し動かなくなったように感じただけでした。
その後、水責めの拷問を僕にかける支度をしました。僕を裸にし地面から1尺ぐらいの高さの所に置きました。2人の小姓が僕を引きずっていって、水のたくさん入っている樽から容器で水を汲んで僕に注ぎました。これを見た代官主水は、拷問をかけている者に [より良い] 方法がある、と言いました。そして、彼自ら桶の水を汲んで注ぎ、水が僕の臍から胸や胃まで流れて溢れました。顔・鼻・眼・口に大量の水をかけ僕を苦しめ続けました。多量の水が口に入ったので、3回吐きました。しかしあの野蛮な男は疲れることなく水をかけ続けたので、僕はほとんど呼吸ができなくなって死にかかり、それで彼らは拷問をやめました。
拷問が終わると、彼らは残寒の中に裸のまま僕を2時間以上桃の樹にかたく縛っておきました。これで代官たちは引き上げ、3人の家来が残って僕を監視していました。この者たちは密かにやってきて、もし代官の命令に従って僕が宗教を棄てれば、彼らは僕を死なせないようにする、執拗に言いました。それに対して僕はみなに、そのようなことはしないと言うことの他返事はない、と言いました。彼らはそれで僕を称賛し、勇気がある振舞いだと言いました。
少し時間がたって、代官主水が再び、これ以上の拷問を受けたり生命を失ったりすることのないように、僕に考えを変えるよう説得した上、僕が豊後殿(島原の領主 松倉豊後守重政)に奉公できるように計らい、奉公したくなかったら、好きな所へ送ってやると言いました。僕はその何れも希望しないし、神の教えに関わることは絶対にやめない。僕を焼き殺したいなら、すぐそうするように、もしそのほかの拷問で僕を苦しめる方が良いと思うなら、それも早速するように、と言いました。
彼は答えて、僕を直ぐ殺す積りではなく、死ぬまで牢内に入れておき、この闘いにおいて僕か彼か、どちらが勝つか見守ろう、と言いました。
この時彼の小姓等が、わが主君は誰が強いか僕を以て試してみる事に決めているのだと大声で叫びました。僕はぜひそれに答えたい、という希望はありましたが、彼を怒らせない方が良い、と思いました。その時主水は、僕の縄を解かせ、僕の着ている物を見て、木綿の袷を与えるなと命じ、直ちに彼の面前から僕を立ち去らせました。
僕は牢に向かいましたが、そこに行って見ると、入口が非常に狭いので、3人の男が無理やり僕を押し入れなければならず、それでも充分ではなく、中にいる囚人が僕を引き入れて、辛うじて、牢に入ることが出来ました。
牢内では冬の風が諸所から入って来て身に染みるので、その寒さは殊の外堪え難いものでした。衣類なしで極度の寒さに苦しんでいる14日間、常に縛られていました。食事の時は縄を解かれましたが、前記の裁判官の命令があるので、食事が終わればすぐ確実にまた縛られました。
牢内には僕に分ける衣類を持っている者はいませんし、もし持っていたとしても、規則が厳しく番人が常に見張っているので、それを僕に与えることは困難に思われました。」 (『遥かなる高麗』298~301貢)
(5)カウン・ヴィセンテらの殉教
最後に、カウン・ヴィセンテら9名の殉教について、述べる。ジョアン・ロドリゲス・ジラン神父の1627年3月24日付け書簡によると、長崎で処刑するため、1926年6月18日夜に島原の牢獄を出発した。この時、処刑される者に敬意を表すため、神父2人はおおいで覆われた駕籠に載せられ、それぞれ2人の男がこれを担ぎ、修道士はよく縛って駄馬に載せた。彼らに6人の騎馬兵とおよそ50人の歩兵が小銃・弓矢で武装し、他に彼らの従者が同行した。6月19日夜明けに長崎から約2里離れた日見に到着し、ここで1泊した。そして翌6月20日、日見から長崎へ出発した。
長崎の近くに行くと村の信徒の長であった良きキリシタンが道に出て、神父らに茶を飲ませたという。さらに日本の習わしによって、別れの盃と果物を饗応しようとしたが、役人たちはそれが手間取ると考えて許さなかった。
以下はジラン神父の書簡をそのまま掲載する。
「 聖なる受難者は、ついに犠牲のために積まれた薪の場所に連れて来られました。殉教の場の入口でパドレ・バルタサル・デ・トレスは管区長パドレにお先にと最敬礼をしました。彼らは海側から入り、みな入口でひざまずいて、聖なる場所を崇敬し、受けた恵みを特に彼らを殉教の道へと召したもうた神に感謝しました。
役人はそこから彼らを丘に連れて行って、裁判長 [水野河内守] の命令どおり、すなわち今までの方法とは違って彼らを強く柱に縛り始めました。そして大きな苦しみなしに短い時間で死ぬように、 [柱のまわりには] 多量の薪が置いてありました。両端の柱2本は空いていて、三番目から縛り始めました。東方にあたる立山に面した最初の場所はパドレ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラが占め、中央にパドレ・バルタサル・デ・トレス、その次に管区長パドレがいました。四番目の柱はエルマノ・ペドロ・リンセイに当たり、そこは彼が長年仕えていたパドレの隣でした。第五はエルマノ・ミゲル・トーゾー、第六はエルマノ・ヴィセンテ・カウン、第七はエルマノ・パブロ・シンスケです。第八はエルマノ・ジョアン・キサクで、彼は第九番目のエルマノ・ガスバル・サダマツに仕えていた為に栄光の殉教に恵まれたのです [・・・]。
さて、多量の薪に点火されると、初めは煙が非常に多くて何も見えませんでしたが、燃え始めて恐ろしい焔が立ったときに、勇敢な受難者が見えました。彼らは非常にしっかりしていて静かで動かず、この恐ろしい焔の中で揺らいだり身動きしたりする者は1人もいませんでした。
ときどきイエスス・マリアの聖名を唱える声が聞こえましたが、それを唱え続けることが出来ずに、きわめて短い時間でその霊を神に捧げました。点火されてから絶息するまで、15分を越えないくらいでした [・・・]。
全員がこのように喜びのうちに勇敢に死亡すると、島原および大村の役人等は、殉教者の示した稀有の気力に感嘆し、裁判長に礼をしてから各自の土地へ戻って行きました。裁判長は、これも劣らず感嘆して市に帰りました。しかしその前にさらに多くの薪を火炎に投じて、聖なる遺体を灰にするように命じました。何名かの役人が裁判長の命令を遂行するために、殉教の場に残って、聖なる遺体を焼くことに努めました [・・・]。全てが燃え尽きたとき、聖なる灰を取って俵に入れ舟に載せて、かほど美しく価値ある品物を海へ運び、種子を蒔くように海中に撒きました [・・・]。 」 (『遥かなる高麗』305~306貢)
このように、1626年6月20日、カウン・ヴィセンテは、ゾラ神父やパシェコ神父ら8名ともに長崎の西坂で火あぶりの刑に処せられて殉教した。享年46歳であった。1867年5月7日、ローマ教皇ピオ10世によって、カウン・ヴィセンテは日本で殉教した他の204名とともに福者に列福された。
(6)カウン・ヴィセンテ年表
西暦 | 月日 | 年齢 | 経 歴 |
1580? | |
0 | 首都 漢城(現在のソウル市)で生まれる。 |
1592 | 12 | 漢城を占領していた小西行長の軍に自ら投降する。 | |
1592 | 12月 | 12 | 九州・天草の志岐でペドロ・モレホン神父から洗礼を受ける。洗礼名 ヴィセンテ。 |
1593 | 13 | 志岐のセミナリオに入学し、神学や日本語などを学ぶ。 | |
1612 | 32 | 朝鮮での宣教を目的に中国へ渡る。朝鮮へ入国する機会が得られず、7年間 中国に滞在する。この間、中国語や中国の学問などを学ぶ。 |
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1619 | 39 | 日本へ帰国。長崎で中国人相手に宣教活動を行う。マカオへ派遣される。 | |
1620 | 40 | マカオから帰国。 | |
1622 | 42 | 長崎で中国人相手に宣教活動を行う。 | |
? | 島原半島で宣教活動を行う。ジョアン・バウチスタ・ゾラ神父に付き従い、宣教を行 う。この間のキリスト教での身分は「同宿」。 |
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1625 | 12月22日 | 45 | 島原半島の口之津で信徒の密告に遭い、ジョアン・バウチスタ・ゾラ神父とともに逮捕され、島原の牢に入れられる。同じ牢に入れられていたイエズス会日本管区長のフランシスコ・パシェコ神父からイエズス会の修道士(イルマン)に昇進される。 |
1626 | 6月20日 | 46 | 長崎・西坂の丘で火あぶりの刑を受けて殉教する。 |
1867 | 5月7日 | ローマ教皇ピオ10世から日本で殉教した他の204名とともに福者に列福される。 |
9 件のコメント:
> ペドロ・モレホン神父(Pedro Morejon, 1562-1639)
すみませんごめんなさい!ペドdeホモ神父にしか見えないです!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww><
鉄の釘抜き、アヒルで検索してみると「吉田」とか出てきて草。
バールのようなもの…。
ほんとに大昔からなりすましのスパイ民族だな。
・主水:宮中で飲料水などを司った令制の官職
・バプテスマ:ギリシア語「浸す、沈める」の意
水を用いて潔(きよ)めることを通して生命の再生あるいは新生を意味する
つまり、主(=神)の水を灌水すること、または灌水された人を表す隠語かな?
そして、水と言えば、マルセイユに本部を置く世界水会議@キムチ天ちゃんw
エド モンド ダンテス
エドム人
中村 主水
とか安易でアフォ過ぎるかと思い
米らなかったら当たりだった
残念寝てしもたwww
団長のお陰で日本史勉強出来るけど
巷では本当にギアス掛けられたみたいに
歴史改変してるんだなーって毎度思うw
ひろゆきはまだ元気そうなので
くたばるのを楽しみに待ちたいと思いますw
>2022年4月5日 23:59
私もすみませんごめんなさい
ずーと読んでいて
ずーとその最中かなと感じました
人間が劣悪なのかしら
追)
汚腐乱巣高級風サドマゾエロ本
中村江里子 の代表作といえば
みなさんご存じ
カ ル ト Q
(爆)
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