2019年5月7日火曜日

Remember 日本人初のオリンピック金メダリスト


上皇ご夫妻 テニス仲間と交流
05月05日 19時54分

退位した上皇さまと上皇后さまは、5日夕方、東京都内のテニスクラブを私的に訪れ、テニス仲間と交流されました。

皇位継承のあと、上皇ご夫妻が皇居の外に出られたのはこれが初めてです。上皇ご夫妻は、5日午後4時半前、東京・港区の「東京ローンテニスクラブ」に車で到着されました。
皇位継承のあと、お二人が皇居の外に出られたのはこれが初めてです。
車を降りて施設に入る際、上皇さまは集まった人たちや報道陣ににこやかな表情で手を振られ、上皇后さまは会釈をされました。このテニスクラブは、上皇ご夫妻が結婚前から一緒にテニスを楽しんだ思い出の場所で、お二人は例年この時期に足を運ばれています。
関係者によりますと、上皇ご夫妻は5日はプレーはせず、テニス仲間らと1時間ほど和やかに懇談されたということです。
この際、お二人は、端午の節句にちなんで持参した「かしわ餅」と「ちまき」をふるまわれたということです。
一方、クラブ側は、上皇さまの退位をお祝いするケーキなどを用意したほか、花束を贈ったということです。
施設をあとにする際、見送りに並んだクラブの会員らから大きな拍手が送られると、ご夫妻は、笑顔で手を振ってこたえられていました。
上皇さまの学習院の後輩で、上皇ご夫妻と長年親交がある織田和雄さん(83)は、クラブの会員としてお二人を出迎えました。
織田さんは「上皇さまに『大変お疲れさまでした。今後もテニスなどのスポーツをなさってください』と申し上げたところ、『そうだね』とおっしゃられていました。皇太子時代から上皇后さまやいろんな方とテニスをなさった場所なので、知った顔も多く、終始にこやかでリラックスされていた」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20190505/0029314.html

パパは・・・





織田 幹雄(おだ みきお、1905年明治38年)3月30日 - 1998年平成10年)12月2日)は、日本陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト[1][2][3]
日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人としても個人初のオリンピック金メダリストでもある[5][6][7]。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる[8][9]。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した[4][10][11][12]。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、長過ぎるので織田が「三段跳」と訳した[13]。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平1932年五輪)・田島直人1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから当時日本のお家芸とも言われた[14]。なお、南部と織田は終生の友人であり、田島は織田の影響で三段跳を始めた関係でもある[12][15][16]。「陸上の神様[10][17]、あるいは「日本陸上界の父[1][12][18]と呼ばれ、戦後日本全国で陸上競技を指導普及したいわば育ての親のような存在である[19]国際オリンピック委員会(IOC)オリンピック功労賞受賞。
文化功労者、広島県名誉県民、安芸郡海田町名誉町民、東京都名誉都民渋谷区名誉区民。最終学歴は早稲田大学商学部卒業。朝日新聞社に入社し最終的には朝日新聞運動部部長、のち早稲田大学教授を務めた。
実兄は元中国電力筆頭理事で小水力発電メーカーを立ち上げた実業家の織田史郎[20]。妻は貴族院議員中村純九郎の三女[21]。実業家で第7代住友財閥総理事の古田俊之助は義兄[21]。妻の伯母は天文学者寺尾寿の先妻[21]長男の正雄と次男の和雄は共に父・幹雄関連の著書で名を連ね関連イベントに登場する。正雄は日独協会理事を務めドイツ関連の書籍をいくつか出している[22]。一方で二人は、上皇明仁の学友(正雄は学習院中等科で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり常陸宮正仁親王と同級生[23])として知られ、皇后美智子とを繋いだ関係者でもある。 
1964年(昭和39年)、東京オリンピックでは織田は陸上競技日本代表総監督(JAAF強化委員長)として指揮を執し、南部が陸上競技監督として活躍した[4][12][64]円谷幸吉をマラソンに転向させ、織田の狙い通り、円谷、君原健二寺沢徹の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した[1][65][66][67]。 
ダグラス・マッカーサーとの出会い

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)最高司令官のダグラス・マッカーサーとは、戦前に一度会っている。
これは1924年パリ五輪の時にアメリカやり投代表ウィリアム・ニューフェルド英語版と知り合い、その次の1928年アムステルダム五輪で再会した際に当時五輪アメリカ選手団団長を務めていたマッカーサーを紹介してもらったもの[87]織田は終戦時にマッカーサーがアメリカの将軍であった事に驚いたという。なおニューフェルドも上記#戦後復興の通り戦後CIE体育担当官として来日しており戦後の日本スポーツ界再建に貢献している。


、、、(爆wwwwwwwwwwww


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

BOOK著者紹介情報(日外アソシエーツ)より

織田/和雄
昭和10年11月2日、日本人初のオリンピック金メダリスト・織田幹雄の次男として生まれる。中等科2年から高等科、大学まで学習院に通い、天皇陛下の2歳後輩。大学卒業後は、慶應義塾大学大学院、米国・クレアモント大学院、英国・リバプール大学夏季学校で学んだ。その後、三菱商事株式会社に入社し、石油を始めエネルギー分野を主に担当し、米国・サンフランシスコなどで海外駐在も経験した。定年後は、関東テニス協会副理事長、東京都テニス協会副会長、日本マスターズ陸上競技連合副会長などの要職を歴任。今から約60年前、天皇陛下と美智子さまの電話取り次ぎ係として、ご成婚に至るまでのキューピッド役を務めた。天皇陛下と70年に渡って親しい交流を続けている

・・・そうですか(爆)