2018年11月15日木曜日

満鉄幹部の息子の元日本銀行理事の佃亮二さん(87)が大濠公園内の池に転落し死亡

元福岡銀行頭取が死亡…散歩中、池に転落か

15日午前5時25分頃、福岡市中央区の大濠公園内の池で、近くに住む元福岡銀行頭取、佃亮二さん(87)がうつぶせの状態で浮かんでいるのを散歩中の女性が見つけ、110番した。
佃さんは市内の病院に搬送されたが、約1時間半後に死亡が確認された。福岡県警中央署は、散歩中に誤って池に転落したとみて調べている。

発表によると、佃さんは1人暮らしで、普段から同公園を散歩していたという。

佃さんは日本銀行入行後、理事などを経て福岡銀行に入り、1991年から2000年まで頭取、05年まで会長を務めた。告別式は近親者で行い、お別れの会は未定。

YOMIURI ONLINE 11/15 19:27
https://www.yomiuri.co.jp/national/20181115-OYT1T50104.html






満州の終戦
佃 亮二
終戦の時私は十四歳、南満州の安東という町にいた。その時の経験は未だに 忘れ難く私の脳裡に残っている。記憶にあるいくつかの出来事を順を追って記 してみよう。
(一)昭和二十年八月九日、ソ連軍満州へ侵攻。守る精鋭関東軍は既に南方 に転用されてもぬけの殻。敵軍の南下は恰も無人の野を行くが如くであった。 私達中学生は対戦車爆雷を抱いて敵戦車に体当たりすることを命ぜられていた。 あと数日終戦が遅れれば、私は確実にソ連戦車に蹂躪されていた筈だ。
(二)ソ連軍進駐。囚人兵からなる先遣隊は暴行掠奪の限りを尽くした。わ か家もやたらに自動小銃をぶっ放すソ連兵に数回に亘り襲われた。射殺される かもしれない恐怖と、無抵抗の意志を表わすために両手を挙げざるを得なかっ た屈辱は未だに忘れることができない。
(三)ソ連軍撤収後、中華民国政府軍と中国共産党軍の内戦が始まった。幾 度かの市街戦の末、中共軍が町を制圧した。やがて大規模な日本人中学生狩り が行われた(中学校は既に閉鎖されていた)。彼等は内戦の前戦に送られ塹壕 掘りに使われた。幾人かの級友は遂に還らなかった。私は鉄路局の苦力(人夫) として働いていたので徴用は免れたが、数十キロのセメント袋の積み卸し作業 は骨身にこたえた。
(四)町ではかつての支配層に対する人民裁判が行われ、多くの日本人が処 刑された。満鉄幹部職員であった父は、幸い、かつての部下であった中国人の 庇護を得て人民裁判は免れたが、当然失職していた。ある日、父は残された幾 許かの家財を携えて食糧入手のため中国人集落に赴いた。その折、中国人農夫 は、父に同行していた妹を指さして「家財は不要。その娘を呉れ」と強く迫っ た。「慌てて逃げ帰ったよ」と、後日父は苦笑しながら話していた。まかり間 違えば私の妹は中国残留孤児になっていたのである。
一年後、私達一家は祖国に引き揚げたが、この一年間の経験はその後の私の 人生観に強い影響を及ぼしたと思う。「いま私が在るのは、多くの僥倖の結果 でしかない」「あの苦労の辛さを想えば、どのような苦境にも耐えられる」と いう一種の「開き直り」の精神も、あの当時の経験の結果自然に身についたも のであろう。

佃 亮二
昭和6年5月7日生
熊本県玉名市出身・福岡市在住
〈好きな言葉〉「得意淡然 失意泰然」
http://takafuji1946.sakura.ne.jp/wasure/096.htm



、、、(爆wwwwwww

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

日銀出身で、バブル期の日銀実力者の側近だったそうdeathね。
素人のwiki調べw

GABRIEL さんのコメント...

毎日新聞には
凄惨ちっくな最期
実際の転落場所が
不明ではあるけど
派手な転落ですね


https://mainichi.jp/articles/20181116/k00/00m/040/041000c
頭部に打撲痕、左あばら骨3本骨折 県警が司法解剖へ
 
15日午前5時25分ごろ、福岡市中央区の大濠公園の池に同市中央区大濠1、元福岡銀行頭取、佃亮二(つくだ・りょうじ)さん(87)が浮かんでいるのを散歩中の女性が見つけて110番した。駆け付けた消防隊員が救助して市内の病院に搬送したが、佃さんは約1時間半後に死亡が確認された。福岡県警が司法解剖して死因を調べるとともに、何らかの原因で池に転落したとみて事故と事件の両面で捜査している。

県警によると、佃さんは公園内の池の岸から約2メートル離れた水深50センチ~1メートルの場所に浮いていた。左側頭部に打撲痕があり、左側のあばら骨3本が折れていた。ウインドブレーカーの上下を着ており、履いていたとみられるウオーキングシューズが池と近くの歩道に落ちていた。直前に第三者と争ったような形跡は確認されていない。
 佃さんは旧満州(現中国東北部)生まれで、引き揚げ後、熊本県玉名市で過ごした。東京大を経て日本銀行に入行し、営業局長や理事を歴任。1989年に副頭取として福岡銀行に入り、91~2000年に頭取、00~05年に会長を務めた。
 日銀出身者でも理事経験者が地銀の頭取になるのは珍しく、当時は「大物頭取の登場」と注目を集めた。佃さんが頭取を務めた90年代はバブル崩壊や金融自由化などの荒波が押し寄せた時代。経営資源の地元集中や、中小・零細企業向け融資にも積極的に取り組んだ。
佃さんの葬儀は近親者で営む。お別れの会の開催は未定という。


>大濠公園

過去には
人燃えて死亡事件とか

匿名 さんのコメント...

おそらく同期の方のご子息かご令嬢は
(と一応ぼかしとく)
皇族お見合いリストに載っていました

満鉄の株は紙屑になりましたね
金つっこんだ人が嘆いてました