将棋の山口英夫八段が死去 76歳、「英ちゃん流」開拓
5/25(金) 15:12配信 デイリースポーツ
日本将棋連盟は25日、山口英夫(やまぐち・ひでお)八段が今月20日に亡くなっていたことを発表した。76歳。広島県呉市出身。葬儀は故人の遺志により、近親者のみで執り行われた。
山口八段は1941年9月8日生まれ。48年、5歳で原田泰夫九段に入門。70年、第1期新人王戦で棋戦初優勝。86年2月、七段。88年、現役金属25年。2002年3月引退。06年4月八段。
竜王戦は4組2期。順位戦はB級2組5期。
中飛車で「英ちゃん流」と呼ばれる戦法を開拓した。
https://www.daily.co.jp/gossip/2018/05/25/0011291059.shtml
明治以降の日本の育ての親・ケツモチから無慈悲なお知らせですな。(爆wwwww
2018年5月24日木曜日
日本の皇室とユダメリカのケツを持ってた独ライン@英国王室終了のお知らせ
http://tokumei10.blogspot.com/2018/05/blog-post_48.html
2018年5月25日金曜日
北朝鮮の本体が飼い主に切り捨てられた件
http://tokumei10.blogspot.com/2018/05/blog-post_767.html
2018年5月25日金曜日
Go Your Own Way
http://tokumei10.blogspot.com/2018/05/go-your-own-way.html
要するに・・・
2018年1月19日金曜日
この世界の片隅に「青山クラブ」と「桜松館」
あのアニメにも登場 旧海軍施設を保存へ 広島 呉
1月19日 4時39分
http://tokumei10.blogspot.com/2018/01/blog-post_50.html
2018年5月4日金曜日
蚊帳の外の李克強首相@日中韓首脳会談@実質的に敗者会談
、、、(爆wwwwwww
おまけ・・・
→17
☆セシル・ブロック
明治維新の際、日本政府は日本海軍建設に当たり、英国海軍を手本とすべく、英国海軍使節団を数多く日本に招聘した。第一次大戦までは、艦艇内の操舵命令は、英語が使用され、その後も、日本海軍は英国海軍流の言葉を、日本化して使用していた。
こうした背景から、英語は海軍士官には必要不可欠のものとなっていた。日本海軍は、海軍士官養成の急務から、海軍兵学寮(その後海軍兵学校に改称)が創設されて以来、英語教育に重点を置いた。爾来、英語担当の日本人教官は文法等を中心に講義し、英国から招かれた教官が3年間を任期として、2人が英会話を中心として教壇に立った。生徒達にとって、英人による授業は、英国事情を知る上でも貴重な体験であったようだ。しかし、日本海軍は、昭和6年9月の満州事変以降、日英関係が更に悪化の一途を辿ると、英語教育を終戦まで続けながらも、昭和13年以降は英人教官を江田島に招聘することはなかった。
セシル・ブロックは、昭和7年米国留学中に海軍兵学校に招聘され、3年間を江田島で過ごすことになる。ブロックは、江田島で生徒の学業、体育、日常生活にいたるまで、様々な描写を中心に、日本人教官との交流や日本海軍論、日本人論や日本文化論まで展開している。ブロックは、帰国後トンブリッジ・スクールの教師となり、昭和15年の夏に『英人の見た海軍兵学校』の原稿を書き終えている。日本が、真珠湾攻撃で米英に宣戦布告したのを契機に、英国が日本の実力を知る一助となればとの希望から昭和17年3月に出版している。日本では、海軍報道部の飯野紀元の訳により、敗戦の色濃くなった18年8月5日、「内外書房」から初版10,000部が発行され、兵学校を目指す当時の中学生の愛読書となったようだ。
英国海軍士官は、特権階級か中流階級の上層から構成されているのに比べ、日本海軍の士官は、国民全体のあらゆる階層からの出身者によって構成されていた。これをブロックは、日本の海軍兵学校の入学制度に見ている。「兵学校の入学試験は、海軍がこれを行い、この入学試験に通過しない者は、決して入学を許されない。だから両親が貧しいからといって、その子供が海軍士官になれないという理由はないのである。なぜなれば、その子弟が兵学校の入学試験に通過して後は、彼の費用は一切官費を以て支弁されるからである。・・・兵学校の新入生は、真に日本国民のあらゆる階級層を代表する青年の集まりといってよい。私が最後に見た新入生の中には、お二人の皇族宮殿下がおらせられたと同時に、漁夫の息子もいた」と。
「1934年(昭和9年)には、7,138人応募者があったのに対し、入学を許可された者は240人に過ぎなかった。・・・たいていの応募者は、身体検査で落第する。この身体検査に通過するためには、最も高い標準に達することが必要である。なぜなれば、完全な健康に恵まれた者でなければ、4年間の烈しい訓練に耐えられないからである」と、学力が最高レベルに達していることを前提条件に、凄まじい訓練に耐えうる肉体を備えた若者が江田島では求められた。
セシル・ブロックは、『怪談』の作者として有名な、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、1892年(明治25年)に書いた手紙の中の一部を引用し、自身もまたハーン同様に、海軍兵学校の生徒を日本一の健児と礼賛している。ラフカディオ・ハーンは、機会さえあれば、兵学校で教えたいとさえ述べている。「尾道で私は、一群の兵学校の生徒と一緒になった。彼らは、皆優秀な若者で、学校へ帰る途中だった。彼らは、呉まで私と一緒であった。私は、機会さえあれば、兵学校で教えるようになりたいと思う。兵学校のイギリスの教師は、仕事が楽で棒給が多いのである。・・・その生徒達は、皆よく英語を話した。その船で私と一緒だったのは13人であった。・・・話をきくと中井も兵学校にいるのだ。私は一層兵学校へ奉職したい気持ちを強く感ずる。どうかして兵学校へ入りたいものだ。江田島の生徒は、素晴らしい青年ばかりだ。くにのまもりとなるべき日本一の健児なのだ」と。
セシル・ブロックは、イギリス海軍評論家の「日本海軍軍人は、既定の計画を遂行するには、忠実且つ有能であるけれども、予期しなかった出来事を処理することは上手でない」という批評を否定し、将来日本との交戦を覚悟する国の海軍当局は、この様な批評に安心して、日本海軍を侮ってはならないと忠告している。しかし、ブロックも「・・・江田島の学課は、量が多過ぎて、指導者に必要な臨機応変の才を養うのに適していないことも事実である。敵味方の軍艦が、互いに見えるところへ来る以前に、戦の勝負が決してしまうというような近代の海戦に必要なのは、部下に先んじて討ち死にすることを誇りとする士官であってはならない。近代海戦の統帥者は、迅速に頭が働き、決断力のある者でなければならない」と書いている。だが、「各級及び各部隊には、数名の優秀鋭敏な頭の持ち主がいるのであって、かかる生徒は、士官となって後の進級も早く、大尉の時には、東京の海軍大学で徹底的な教育を受け、将来日本海軍の統帥者となる人々なのだ。彼等が、独創的な作戦を企画することが出来ないとは、断然言い得ないのである」とも書いている。
しかし、日本海軍は、太平洋戦争の緒戦では一定の戦果を収めたが、その後はイギリス海軍評論家が論じたように、超純粋培養されたエリート・日本海軍士官達は、予期せぬ出来事の連続に翻弄され続けたのたが事実である。
参考 『英人の見た海軍兵学校』(初版本) 評論家・長野龍運 緒論文 他
http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/sub10-10.html
、、、(爆wwwwwwww
2 件のコメント:
ひょっとして KURE 5-56 も意味深ネーミング?
いくら頭良くても 実戦的な切磋琢磨しなければ 脳内お花畑
あーら偶然
昨晩大学時代を思い出して
呉市関連の動画を見てたとこw
次は誰が死ぬのかしら
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