日枝久(ひえだ ひさし、1937年12月31日 - )は、株式会社フジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長および株式会社フジテレビジョン(CX)代表取締役会長。高麗大学(韓国)の名誉経営学博士。
WIKIには「金光教信者」とありますが「統一教会」との話も。(w
鹿内 信隆(1911~90)/初代フジサンケイグループ会議議長
北海道生まれ。1936(昭和11)年早大政経学部卒。
のちに早大総長になった恩師・阿部賢一(徳富蘇峰娘婿)の紹介で、倉敷絹織(のちの倉敷レーヨン、現クラレ)に入社、菊池寅七専務の知遇を得て、翌年、菊池が織物から金属、窯業の分野までカバーする三徳工業を創設、その創立事務を手伝って同社の業務課長に抜擢された。その後、次女・英子と結婚、娘婿となった。
38年応召し、予備役召集第一回の幹部候補生として若松町の陸軍経理学校に進み、のちに陸軍主計中尉となった。ここで、日清紡専務として軍との折衝にあたっていた桜田武や、大日本再生製紙社長の水野成夫らと、需給計画の交渉を通じて知り合うことになる。
これが、信隆と財界人脈とを結ぶそもそもの機縁となった。
除隊後の43年、日産コンツェルン総帥で満州重工業開発総裁・鮎川義介が資金的なバックアップをしていた日本電子工業創立に参画。
戦時下におけるこうした産軍複合人脈ともいうべきコネクションが、戦後、信隆を日経連の初代専務理事に押し立てる培養土となった。
戦後の追放から復帰後、経済同友会の創立に参加し、中央労働委員として47年の2・1ゼネストなどに対応、48年日経連専務理事兼事務局長となり、労働問題の青年将校的役割を果たした。
54年財界出資のニッポン放送設立に加わり専務、61年社長。
57年水野成夫と協力して富士テレビジョン(のちフジテレビ)を設立して専務、64年社長。68年産経新聞社長、69年彫刻の森美術館館長、74年フジ・サンケイグループ5社会議議長、85年同最高顧問となったが、88年長男春雄の死去でニッポン放送、フジ、産経会長に復帰した。90年死去。
また、箱根彫刻の森美術館、日本美術協会、上野の森美術館、美ヶ原高原美術館など、美術・芸術と関わりを持つことにより、シラク現仏大統領、シュミット独元首相、ヒース英元首相、ファンファーニ伊元首相、米ロックフェラー家といった海外政財界要人や貴族、そして、何といっても、日本では、皇室と人脈を築くに至った。
信隆は皇室や華族、財閥に連なる血縁を何も持っていなかった。
徒手空拳の庶民としてメディア支配の階段を上がってきた者にとって
手短に皇室と交わりを結ぶ方策として、美術というのは絶妙な素材であった。
http://episode.kingendaikeizu.net/31.htm
要するに・・・
日枝久派@韓国右翼 vs 鹿内信隆派@満州派
の抗争でしょ。(爆w