X JAPANのYOSHIKI(Dr/Pf)、L’Arc~en~CielのHYDE(Vo)、LUNA SEA/X JAPANのSUGIZO(Gt/Vn)、ギタリストのMIYAVIが11日、4人そろって記者会見を行い、新バンド「THE LAST ROCKSTARS」を結成したことを発表した。来年1月からは日米でデビュー公演を行う。
YOSHIKIは「MIYAVI、HYDE、SUGIZO、自分も含めて(それぞれの)バンドがある。世界を狙いたいというメンバーが集まって、それぞれのバンドはそのままあります。アベンジャーズのように僕らが集まって、日本から世界に挑戦しようということで、このバンドが結成されました」と説明。
SUGIZOは「夢は無限大ですよね。可能性も無限大」と語ると、「世界に対して日本の音楽、日本のアーティストがトップレベルまでのし上がったことって、まだほぼないじゃないですか。その夢はやっぱりみんな持ってますね。アニメやゲームなどの日本のコンテンツがワールドワイドになってきているなか、正直、音楽は遅れをとっていると思うんですよね。それをもし、僕らの力で巻き返すことでできたら、それはすばらしいなという夢を持っています」と、世界進出への野望を掲げた。
HYDEは「一暴れしたいなという気持ちがあった。このメンバーがそろえば、日本から“百暴れ”できちゃうなというチャンスがある。これをみんなで起爆剤にして爆発させる」と語ると、YOSHIKIは「暴れますか」と鼓舞。MIYAVIは「一暴れ、百暴れっていいっすね。暴れられるバンドに」と同調していた。
会見中には、「THE LAST ROCKSTARS」(作詞:YOSHIKI 作曲:YOSHIKI)と「PSYCHO LOVE」(作詞:YOSHIKI/HYDE 作曲:HYDE)の2曲のティザー映像を公開。デビュー公演のスケジュールも発表となり、来年1月26・27日に東京・有明アリーナ、1月29・30日に東京ガーデンシアター、2月4日には米・ニューヨークのHammerstein Ballroom、2月10日には米・ロサンゼルスのHollywood Palladiumで行われる。https://www.oricon.co.jp/news/2256686/full/
渡邊 睦裕(わたなべ むつひろ、1918年1月18日 - 2003年4月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人。近衛歩兵第一連隊所属[1][2]。最終階級は軍曹、ポツダム曹長。
捕虜監視員として東京俘虜収容所本所(大森)、第四分所(新潟県直江津)、第十二分所(長野県満島)に勤務。日本軍によって捕らえられた戦争捕虜を虐待していたことで知られる。捕虜たちから「ザ・バード(the Bird)」とあだ名されていた。敗戦後、戦犯として指名手配されるが、連合国軍による占領終結まで逃げ延び、起訴されることはなかった[3]。
経歴
生い立ち
6人兄弟の4番目として、ホテルや鉱山を経営する豊かな家に生まれる。早稲田大学に進学し、フランス文学を専攻。卒業後、徴兵されるまでの1か月間、同盟通信社に勤務していた。[4]
戦中
捕虜監視員としての渡邊について、元捕虜は以下のように証言している。
- 捕虜たちを度々殴打し、重傷を負わせた。
- 冬の時期、捕虜である将校を掘っ立て小屋の中でふんどし1枚にして4日間過ごさせた。
- 65歳の捕虜を16日間木に縛り付け、毎晩殴るように部下に命令した。
- 虫垂切除患者で柔道の練習をした。
- 捕虜虐待によって性的快感を得ていた。
- 情緒不安定であり、捕虜を1分間殴り続けた後に、キャンディやタバコを捕虜に差し出した。
- 大森収容所の捕虜の中でも特にルイス・ザンペリーニに対し関心を持った。ザンペリーニが渡邊に対して反抗的だったからである。渡邊はザンペリーニに対して重い木製の梁を37分以上担がせ、それが終わると彼の腹を殴って虐待した。
- 捕虜を一列に並ばせ、敬礼をさせ、ミスをした捕虜を殴りつけた。[5]
戦後
1945年、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本で40人の重要指名手配戦犯の23番目に、渡邊を指名した。しかし、渡邊は連合国軍の占領が解かれるまで7年間逃亡し、ついに起訴されることはなかった。逃亡中は農場や小さな食料店で働いていた。渡邊の母親は彼が生きていることを知っており、渡邊は母が勤めるレストランに数年おきに出没していた。
連合国軍による占領終結後、渡邊は保険会社のセールスマンとして働き、東京都内に150万ドルのマンションを所有し、休暇はオーストラリアのゴールドコーストで過ごすなど、裕福な生活を送っていた[5]。
1956年、『文藝春秋』に手記を寄稿する。タイトルは「アメリカに裁かれるのは厭だ!七年間潜行し遂に戰犯を逃れた男の手記」であった。 [2][5]
1995年夏、自宅で英デイリーメール紙のインタビューに応じ、元捕虜たちに対して深い謝罪の意を述べるとともに「もし元捕虜たちが望むのであれば、ここに来て私を殴っていい」と話した[6][7]。
長野オリンピックの際には、かつて渡邊が虐待したザンペリーニが聖火ランナーとして日本を訪れた。その際には米CBSが60分のドキュメンタリー放送として、東京のホテルオークラにて渡邊に対してインタビューを行った。渡邊は捕虜の虐待については認めたものの、謝罪をすることはなかった。そのインタビューにおいて「(虐待は)ミリタリーオーダー(軍令)でやったというのじゃなく」「ザンパリーニ[注 1]さんは有名な人だし、渡辺に殴られたというならば、キャンプ(収容所)内でそういう事実があったことは考えられます」と答えている[8]。捕虜については、「日本の敵として厳しく接した。」と答えている[9]。
ザンペリーニは渡邊を許し、面会を望んでいたが、渡邊は拒否した[10]。
2003年4月1日、死去した。
7 件のコメント:
自分事ながら学生時代、やけに羽振りの良い今思えばニダ顔の友人の親の家業がラブホ経営と聞かされ面食らったのを思い出しましたw
親和性がたかいんですねw
焼き肉やパチ屋や芸能や水商売なんかが比較的参入しやすいし、リターンが多い商売だったんでしょうね
どうぞ https://de.wikipedia.org/wiki/Mutsuhiro_Watanabe
渡辺は、実家が長野と満州に鉱山を持ち、不動産投資も行っていた
1942年、卒業後1カ月ほど東京の通信社に勤めた
渡辺伍長は皇宮警察の一員として約1年間、裕仁親王の皇居を守りました。彼は戦争行為に関与したことはない。
w
ていうか、曲を聴いたら、ダンス歌謡曲でござったwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アンジーーーーー
2世3世タレントが誰それの妹弟スター発掘とか
残った数よりコケ倒した多さを知ってて
この爺どもは自分たちが散々コケにしてど根性系やらニッチ枠で
うまいこといった経緯のクセして何番煎じの出し殻でなに茶いれてんの って話だし
林YOSHIさんに関しては
いつ おば おば おばちゃま って言い出すのかなぁ
な、謎テンションで選考してたのもPRでもハイになってんのも
いっそおばちゃまで鶴太郎になったらおさまるんじゃないか だったな
当時のダサ坊今おっさんをキュンキュンさせてればいいんじゃまい?
オワコンらしくレジェント商法で ってなったのね、ハイハイ
何もかもが30年遅れで
キチンと総括しないまま
亡くなっていく感じ
こうDEATHカネ(苦
MIYABIは好きになれんなー
つべで
blackpink検索したばかりに
今韓流の推し垢や公式垢を
ブロックしまくりの苦行なう(苦
海外で知名度上げるには、今はアニメの主題歌になったほうが手っ取り早かったりしてw
Hammerstein Ballroomて、なんか日本人御用達みたいになってるなと思ってたけと、創業者がドイツ系ユダヤ人なのですねー。
痛いロックにしかみえないんですが 間違いでしょうか?
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