2020年6月5日金曜日

グレタ ・トゥーンベリはテロリスト認定済アンティファのお仲間

Still waiting for the EU and individual democratic nations to officially condemn the police brutality and attacks on the free press escalating the USA.
For how long are we going to stand by, watch and say nothing?
https://twitter.com/gretathunberg/status/1268871857526190081?s=21

米国で偽札使う組織犯罪関係者の黒人が少数派中国人やらイスラム教徒やらフランス系白人警官に殺されたところで地球環境的にはCO2排出量が減るだけでしょうに・・・
善良な上級黒人が金髪碧眼の白人警官数名になぶり殺しにされたってのなら理解できますが・・・・
お子様が専門外の政治関係のとこにまで口出しし出したらもう終了でしょうな。
それだけ切羽詰まってるって事でしょう。(爆wwwwwww

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

暴走妄想グレタちゃんには、言いたいことイワシとこ。

匿名 さんのコメント...

https://jp.reuters.com › article
UPDATE 2-Protesters should 'highly consider' coronavirus tests, U.S. health official says - ロイター
21 hours ago · ...particularly if they’re in metropolitan areas that really haven’t controlled the outbreak...we really want those individuals to highly consider being evaluated and get tested,” Redfield told a U.S. House of Representatives subcommittee.“I do think there is a potential unfortunately for this to be a seeding event,” he said, referring to spreading the virus.

匿名 さんのコメント...

こいつに金出してるスポンサーもこれから先は先細りするでしょうから
どんなタイミングでこのガキが捨てられるのか
それとも死ぬまで踊らされるのか
どっちにしても金の切れ目が縁の切れ目


思想論は表向きで、所詮は金でしか繋がってないでしょうからね
おっと、洗脳されたカルト脳な馬鹿は別かw
まあそういう連中は、所詮使い捨て、代わりは幾らでも居るから

今更ながら金の流れを掴んで置いて締め上げるという手法
流石ですね、団長

なるべく早く地獄へ向かわせたいものですね

匿名 さんのコメント...

世界を駆けまわる少女トゥーンベリの先祖か血縁か。
Wikiより


カール・ペーテル・ツンベルク(Carl Peter Thunberg 1743年11月11日 - 1828年8月8日)は、スウェーデンの植物学者、博物学者、医学者。カール・フォン・リンネの弟子として分類学において大きな功績を残した。また出島商館付医師として鎖国期の日本に1年滞在し、日本における植物学や蘭学、西洋における東洋学の発展に寄与した。出島の三学者の一人。

ウプサラ大学のカール・フォン・リンネに師事して植物学、医学を修めた。フランス留学を経て、1771年オランダ東インド会社に入社した。これは日本を含む世界各地の動植物を分類させるためにリンネが弟子のツンベルクを派遣したという説がある。

まずツンベルクはケープ植民地でオランダ語を身につけるとともに、3年かけて喜望峰周辺を探検した。後年"Flora capensis"、『喜望峰植物誌』をまとめ、喜望峰周辺の固有の生態系を報告した。

その後セイロン、ジャワを経て、1775年(安永4年)8月にオランダ商館付医師として出島に赴任した。当初は出島から出ることを許されなかったため、出島へ運びこまれる飼料から植物や昆虫を採取した。医師としては、梅毒に対して昇汞(しょうこう、塩化水銀(II)のこと)を処方する水銀療法を行った。劇的な治療効果を挙げ、長崎で多くの患者が治療を受けた。この療法は通詞の吉雄耕牛らにも伝授された。
翌1776年4月、商館長に従って江戸参府を果たし、徳川家治に謁見した。ツンベルクにとって出島・長崎を離れての旅は日本の文化・生物相等を調査する大きなチャンスであり、道中では箱根などで多くの植物標本を収集した。江戸滞在中には桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導した。日本語、特にオランダからの外来語も観察している。長崎への帰途では大坂の植木屋でも多くの植物を買いこんだ。

しかしその年のうちに日本を離れ、バタヴィアに戻った。商館長からはさらなる滞在を要請されたが、行動が制限されて研究が進まないために見切りをつけたとされている。

1788年に王立協会フェロー選出、1779年には祖国のスウェーデンに戻り、母校ウプサラ大学の植物学教授を経て1781年にウプサラ大学学長に就任した。大学では後に博物学者となるキリル・ラクスマンらを指導した。

在日中に箱根を中心に採集した植物800余種の標本は今もウプサラ大学に保存されている。