7 横山家は「開運淘宮術」開祖の家柄
横山家の長女昭子さんは、すでに川口氏(慶應大学出身で、当時日本IBM 勤務)と結婚していた。三女の和代さんは佐野紀洋氏(東工大大学院卒で、当時のセイコー勤務)と結婚していた。私の家内・静枝は次女で、明治学院大英文科を卒業し、英語関係の仕事についていた(その後、公文塾で英語教室を開く)。
ほんとうにそうそうたる顔ぶれである。私は圧倒された。
岳父の横山正実氏は、元首相・福田赴夫氏とも面識があった(東大同期生)。また氏は江戸時代に「開運淘宮術」を創設した横山丸三淘祖の曽ヒ孫マゴで、社団法人日本淘道会の理事長をつとめておられた。
義母にあたる横山菊江さんは、元陸軍中将・井関隆昌氏(元陸軍第14師団長等を歴任の後、勲一等旭日大綬章。陸軍司政長官)の長女で、妻・静枝は井関中将の孫娘として大事に育てられたのであった。世が世であれば、私などは〝下足番〟にもなれなかったかもしれない。したがって、私はいまも家内には頭が上がらないのだが…。
井関中将は陸士18期、陸大26期恩賜の典型的エリート。〝同期の桜〟にはフィリピン戦で有名な山下奉文大将や終戦時の陸相阿南惟幾がいる。東条さん(英機、元首相)は一期上、そのまた上には永田鉄山(元陸軍軍務局長)や板垣征四郎(終戦時の中国派遣
軍総司令官)らの「花の十六期」─。
いずれも、軍人華やかなりし戦前の1コマだが、歴史マニアなら「浪速のゴー・ストップ事件」が、なじみ深いかもしれない。
昭和8年6月17日、大阪・天六交差点で起きた、信号無視の兵士と交通巡査のいさかいが、陸軍上層部と警察(内務省)の(子どもじみた?)大喧嘩にまで発展したものだが、当時の新聞は、このとき師団長副官(大阪・第四師団、当時大佐)たる井関隆昌中将がいれば(たまたま休暇で不在だった)この事件は起きなかったろうと伝えている。
温厚篤実の人格者として、中将の評判はそれほど高かった。
ところで、横山家が代々受け継いでいる「淘宮」は、平成19年に出版された『成功哲学ノート』(PHP 研究所発刊、池田光著)にも取りあげられ、横山丸三は世界で30人の「成功理論家」の1人として紹介されている。
『広辞苑』によれば─1834年(江戸時代後期)に横山丸三が創設した開運淘宮術の入門者は1000人を超え、大名も10人以上が入門していた─となっている。
その教えの大要は、「人は、生まれつきの『癖』を洗練することにより本心が顕れ、心身、気血の運行を良くし、幸運を得る」というものだが、行きすぎた生来の『癖』を洗い流し、洗練することで、自分の天性が発揮でき、運が良くなっていくのだという。
運をさまたげていたのは、行きすぎた『癖』だったのだ。
「心配しすぎ」や「ひとこと多い」などの、さまざまの『癖』が開運をさまたげている。
それを修養・修行でなくし、人は運を開いていく…ことができるのである。
私は当時はこの教えを知らなかったが、後に知ることになり、平成20年2月「淘宮」に入門することになる。結婚してから幸運に恵まれた人生を歩みつづけておられるのも、このおかげかもしれない。
www.arc-group.jp/tenun_04.html
B.カッコつけて盲目な指導者たち
満州国成立に国際連盟が派遣したリットン調査団の報告を受けて、国際連盟は1933年、総会を開き日本への満州撤退勧告を行った。日本が軍隊の力で満州を支配しようとする意図を、国際社会は不当な暴挙として批判した。これに対して、日本が取った国策は、カッコつけて長い巻紙を読み上げて国際連盟を脱退してしまうという恥ずべき行為だった。しかし、日本政府も国民も、それを恥どころか威張ってほめた。愚かというしかない。
「昭和八年(一九三三)二月十五日の閣議では、陸軍大臣荒木貞夫大将と外務大臣内田康哉が「ここまでくれば、国際連盟から脱退だ」と主張しはじめます。この時は他の閣僚には「まだまだ」と言う人もいて、斎藤実首相も「とんでもない」というので、結論は持ち越されました。ところがここでまた新聞がやりはじめるんですね。一体ぜんたい今の内閣はなんだ、こんなに国際連盟からひどいことを言われてヘーコラするのかと。
「これ実にこれ等諸国に向って憐を乞う怯懦(臆病)の態度であって、徒らにかれ等の軽侮の念を深めるのみである。……わが国はこれまでのように罪悪国扱いをされるのである。連盟内と連盟外の孤立に、事実上何の相違もない」
つまり、今日本が連名で孤立しているというのなら連盟の外にいても同じ孤立じゃないか、どこに違いがあるのか、ならば憐みを乞うようなことはするな、いい加減にしろ。これが毎日新聞(当時は東京日日新聞)二月十八日の記事です。閣議で「国際連盟脱退だ」の主張が押さえつけられた直後にやり出したわけです。
二月二十日、ついに国際連盟は、日本軍の満州からの撤退勧告案を総会で採択しました。その知らせが届くと同時に、日本政府は断固、国際連盟からの脱退という方針を決定せざるを得なくなります。二十二日、新聞は一斉に「いいぞいいぞ」とその脱退に向けての国策を応援し盛り立てます。当日の朝日新聞には、隅のほうに小さく、
「小林多喜二氏、築地で急逝、街頭連絡中捕わる」
の記事が載っています。プロレタリア文学の旗手といわれた小林多喜二が殺されたのがちょうどこの時でした。特別高等警察(特高)は猛威をふるっていたのですね。
正式には二月二十四日、国際連盟は総会で、日本軍の満州撤退勧告を四十一対一、反対は日本のみで採決します。全権大使の松岡洋右は、長い巻紙を読みながら演説をぶち、「さよなら」と言って席を立って、撤退勧告が採決された際の既定の国策どおり、日本は国際連盟から脱退します。松岡洋右――この人は後にもしばしば出てきます――はこの時、ものすごく強気のように見えて、実はそうではなかったというのが歴史の皮肉なんですね。威勢よく演説をして「さよなら」と随員を総会の会場から引っ張り出して出て行ったのですが、後で、
「こと志と違って、日本に帰ってもみなさんに顔向けができない。仕方がないからしばらくアメリカで姿をくらまして、ほとぼりがさめるのを待とうと決心した」
というふうに全権団の随員で参謀本部員の土橋勇逸中佐に言ったそうです。そしてまさに彼は孤影悄然たる思いでスイスからアメリカに行き、はるか彼方、日本の情況をしばらく眺めていました。ところが驚いたことに、新聞は「四十二対一」をすばらしいとほめあげ、松岡を礼賛して「今日、日本にこれほどの英雄はない」と持ち上げていたもんですから当人は大いに喜んで、これは早く帰らねば、と勇んで帰国したというのです。
(中略)
一番大事なのは、この後から世界の情報の肝心な部分が入ってこなくなったということです。アメリカがどういう軍備をするのか、イギリスがどういうことをしているか、などがほとんどわからなくなります。つまり国が孤立化するというのは情報からも孤立するということですが、それをまったく理解しなかった。つまり日本はその後、いい気になって自国の歴史をとんでもない方向へ引っ張っていくという話になるわけです。」半藤一利『昭和史1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.111-115.
国家の最高権力の地位にあるエリートも、しょせんはただの人間である。地位や名誉や学歴や、世間から尊敬される肩書をもった「エらい人」も、たかが生身の人間である以上、愚かな間違いをしないとは限らない。どころか、この「昭和史」を読んでいくと、至る所で国家枢要の指導的地位にある人々が、無教養な市井の庶民オヤジにも劣る程度の自己顕示欲と感情的なミエだけで、重要な決定をしてしまう例にこと欠かないことに呆れる。ある意味では、人間というものはどのみちこの程度のものだと達観すれば腹は立たないが、ことは国家の命運にかかわったのだから、達観などしている場合ではない。でも、昭和初年代のさまざまな動きの中で、それを滅亡へひた走る悲劇とだけ見てしまうと限りなく気分は落ち込むのだが、ばかげた喜劇として見ることもできるかもしれない、と思わせる事件があることを、ぼくはここで再認識させられた。
「事件は昭和八年(一九三三)六月十七日に起きました。
ふつう「ゴーストップ事件」として事典などに出ていますが、大阪で交通信号機ができて間もない、大阪府警察部が得意に思っていたころのことです。「赤は止まれ」「青は進め」という調子でやってましたら、天神橋六丁目交差点で、陸軍歩兵第八連隊中村政一一等兵が赤信号を平気で突っ切りました。交通係の戸田忠夫巡査が「待てーっ」と叫んだところ、中村一等兵は「何を止めるか。俺は公務なんだ」と殴り合いがはじまって、これが「ゴーストップ事件」として話題となったのです。
二人だけの喧嘩で終ればよかったのですが、大阪の陸軍第八連隊は「何をオマワリのごときが馬鹿げたことをやるか、けしからん」といきり立ち、大阪府警察部のほうも「交通信号を守らないとはとんでもない、陸軍だろうが軍人だろうが関係ない」と縣忍大阪府知事も粟屋仙吉警察部長も「陸軍の横暴である」と、頑として抗議をつっぱねました。かくて陸軍対大阪府警察部の大喧嘩に発展したのです。困ったことに、陸軍第八連隊の上の第四師団の井関隆昌参謀長がどうにもならないガンコオヤジで、もう少し融通のきく人ならよかったのですが、一歩も引かない。署長も知事も謝りに来い、それ以外は絶対に許さんと譲りません。一方、受けて立つ粟屋警察部長は厳正なるクリスチャンで、このような横暴に対してはものすごくしっかりした精神の持ち主で、互いにどうにもおさまりません。この互いの言い分をすこし引きますと、
粟屋「軍人と言えども私人として街頭に出た場合は、一市民として巡査の命令に従うべきだ」
井関「軍人はいつでも陛下の軍人であり、街頭においても治外法権の存在である」
粟屋「それは謬見(誤った考え方)に過ぎない。修正すべきである。さもなければ今後、警察官としての公務執行ができなくなる」
つまり、お前たちが命令を守らないと治安を守れないじゃないか、というわけで、警察側は何であろうと一歩も引かないと頑張る。軍部の方も「統帥権」や「皇軍」意識を振り回し、つまり自分たちは天皇の軍隊であって国民の軍隊ではない、従って天皇のために尽くす軍隊に対してがたがた言うのは間違っているなどと主張して、
「われらはここに光輝ある軍旗を奉じ、皇軍の名誉のため断々固として戦い、最悪の場合はただ玉砕あるのみである」
とまで井関大佐が言うわけです。どうにもならなくなってがたがたするうちに、ついに東京にまで飛び火して、出てきたのが陸軍大臣荒木大将です。これが発奮しやすく、「陸軍の名誉にかけて断固、大阪府警察部を謝らせる」と立ち上がります。警察側も当時、警察を指揮下に置いていた内務大臣の山本達雄と内務省の松本学警保局長が荒木陸相と在郷軍人会を相手にこれまた一歩も引かず大喧嘩をはじめます。にっちもさっちもいかない状況がずいぶん長く続き、新聞は面白いものだから書き立てる、国民もどっちが勝つのか煽り立てる人もたくさんいたようで、ケリをどうつけるかが問題になってきた十月二十三日、福井県で大元帥陛下である天皇が参加する陸軍特別大演習が行われました。
その時に天皇は、随行していた荒木陸相にひと言、
「そういえば大阪の事件はいったいどうなっているのか」
皇軍、皇国と自ら言い出したように荒木さんは天皇には忠節なる大軍人ですから「ハハァーッ、必ず私が善処します」とかしこまり、演習が終わって陸軍省に帰ってくると「わが皇軍が陛下にご心配をおかけするとは何事であるか!」と、こういうところは変わり身が早いのですが、ひっくり返って大阪第四師団長に電話して、「いつまでがたがたしているか、直ちに解決せよ」と怒鳴りつけました。ちなみに寺内寿一という人は永井荷風と当時の東京高等師範付属中学校の同級生です。軟派の荷風は硬派の寺内にのべつぶん殴られていたようですが、彼はうんと後にまた出てきます。
ともかくこれではだめだ、和解策を探ろうと縣知事に「なんとかなるまいか」と相談しますが、互いに振り上げた拳はなかなか下げられず、面倒くさいから一番下まで下ろしてしまえというわけで、当事者の中村一等兵と戸田巡査に仲良く握手をさせ、それを写真に撮らせて新聞に載せ、喧嘩は無事に終了したと国民に知らせて一件落着、となりました。
大阪府は何らの処分もなく、陸軍にたてついて正しい道を最後まで貫いたとされましたが、片や陸軍は、荒木さんが天皇陛下に厳重注意をくったことから第八連隊長松田四郎大佐が待命、要するにクビになって陸軍を去りましたから、結果的に陸軍側が非を認めた形になります。ちなみに最後まで陸軍に屈せず粘ったクリスチャンの粟屋警察部長は昭和十八年(一九四三)八月に広島市長となり、二年後の八月六日に被爆死しました。
というように、日本は決して一気に軍国主義化したのではなく、この昭和八年ぐらいまでは少なくとも軍と四つに組んで大相撲を取るだけのことができたといえます。ただし、軍にたてついて大勝負をかけた事件はこれをもって最後となり、この後、あっという間というのか、じりじりというのか、ほどなくマスコミも全面的に軍に屈服し、流れはいつの間にか軍の支持に傾き、軍が「ノー」と言ったことはできない国家になりはじめるのです。」半藤一利『昭和史1926-1945』平凡社ライブラリー、2009.pp.123-126.
このなんともばかばかしい「ゴーストップ事件」の顛末は、陰鬱な「昭和史」の中では、妙に愉快なエピソードに思える。子どもの喧嘩に等しい事件も、日本陸軍と大阪府警察とのメンツをかけた対決になってしまうと、天皇にまで「どうなってるんだ!」と言わせる事件になった。たかが交差点の信号無視の話である。でも、これは昭和八年という時点での、日本陸軍と内務省と宮中の力関係を暗示して興味深い。
https://blog.goo.ne.jp/hisao-mizutani/e/77596f97a434522bc018f2165ab65526
[PDF]国際聯盟第一回総会ニ関スル報告 - 防衛研究所
www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/201103/02.pdf
国際連盟・帝国代表陸軍随員であった陸軍少将・渡邊壽、陸軍歩兵中佐・杉山元(後の陸軍. 大臣・参謀総長)及び陸軍歩兵大尉・井関隆昌の3 名は、大正10(1921)年1 月15 日付で「国. 際聯盟第一回総会ニ関スル報告」(陸軍省-国際連盟-T9-1-58)を作成 ...
、、、(爆wwwwwwww
3 件のコメント:
なんや昔からいるんですなw
地震対策費削った張本人の吉田所長を正義のヒーローのように祭り上げる
アホ山なんとかみたいな奴wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>かっこつけて…国際連盟脱退。
しかし 日本政府も国民もそれを恥どころか威張って褒めた
民意に押されて 国際情勢も認識せず 後先考えず
尊大な感情だけで動くのは 隣の国の人と同じパターン
このころの日本人のプライドなどどれほどのものか。
なかなか香ばしいブログ2つからの引用ありがとうございます
心の弱さに向き合えず 安易に信心にすがって一体化堅固化しがちな 上級国民を
多数擁していることが
今も昔も 日本の弱さだと痛感しました
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