【ワシントン共同】北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさん=失踪当時(13)=の弟で拉致被害者家族会事務局長の横田拓也さんと、田口八重子さん=同(22)=の長男飯塚耕一郎さんが3日、米ワシントンで拉致問題の解決を訴えるセミナーに出席し、被害者の即時帰国が実現しない限り、米朝の非核化交渉で経済支援などを約束すべきでないと訴えた。
2人は2日にワシントン入りして、国務省のビーガン北朝鮮担当特別代表と面会。3日は、国家安全保障会議(NSC)のポッティンジャー・アジア上級部長を訪問し、即時帰国に向けて「一切の妥協をしない」(飯塚さん)との考えを伝えた。
2019/5/4 09:25
共同通信
https://this.kiji.is/497202708005110881
拉致事件は、被害者本人に加え、家族も苦しめ続けている。その対象は、親や兄妹ばかりではない。子供までもが北朝鮮との対峙(たいじ)を強いられている。
母の田口八重子さん(63)=拉致当時(22)=が北朝鮮に連れ去られた1978年、当時1歳だった長男の飯塚耕一郎さんは現在、41歳となった。
田口さんの兄、飯塚繁雄さん(80)の養子となり、21歳まで実母の存在を知らないまま育った。田口さんを「八重子さん」と呼ぶのは、母としての記憶がないからだ。
大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員は、田口さんから日本語教育などを受けた。耕一郎さんは、金さんに会って母の話を聞いたこともある。それでも、実感はなかなか得られない。
「『お母さん』と言いたいけれど、心の底からそういう気持ちで言える日がいつ来るのか。会わないと、何も始まらないですね」
2004年2月、田口さんの息子であることを公表し、拉致被害者の救出活動に加わった。それから14年が過ぎたが、今どこで、どうしているのかすら分からない。「向こう(北朝鮮)にいる方々の情報がないから、健康でいるのか、どうなっているというところが分からない」と話す。
安倍晋三首相と、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長による日朝首脳会談の可能性が模索されるなか、家族として強調していることがある。「全拉致被害者の即時一括帰国」だけを求めているということだ。
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/181101/soc1811010001-n1.html
⇒日産ディーゼル工業@埼玉
UDトラックス株式会社(ユーディートラックス)は、日本の大型車専門(トラック・バス)の自動車メーカーである。スウェーデンの多国籍企業・ボルボ・グループの子会社であり、ボルボグループ製品の輸入もおこなっている。
法人格としては、2007年1月30日にエヌエー株式会社として設立され、2010年4月9日のボルボ・グループ・ジャパン株式会社への社名変更をへて2014年1月1日に現社名に変更した法人であり、同社と合併した(旧)UDトラックス株式会社は、2010年2月1日に日産ディーゼル工業株式会社(にっさんディーゼルこうぎょう)から社名変更した法人である。
なお、日産ディーゼル工業は日産自動車傘下であったが、2007年にボルボの子会社となり資本関係が消滅。ただしその後も業務提携は継続していた。日産自動車製の商用車に搭載されるディーゼルエンジンを生産していたこともある。前身は1950年5月1日に民生産業から分社された民生デイゼル工業であり、1953年の日産自動車の資本参加をへて1960年に日産ディーゼル工業へ社名変更した。旧会社時代のUDエンジン搭載車については民生産業も参照。
民生産業(みんせいさんぎょう)は、かつて存在した法人である。1935年に日本デイゼル工業として発足。その後1940年に鐘淵紡績(のちのカネボウ)の傘下となり1942年に鐘淵デイゼル工業へ社名変更、そして1946年に鐘淵工業(当時・旧:鐘淵紡績)から経営分離された際に当社名へ変更した。
1950年に大型商用(トラック・バスなど)自動車製造会社の民生デイゼル工業を分社。同社は2ストロークディーゼルエンジンとこれを搭載した車両を主力製品とする特徴のある企業であったが、母体企業の転変を経て日産自動車系列下に入った後の1960年に日産ディーゼル工業へ、さらにはボルボグループ入りしたのち2010年に(旧)UDトラックスへと改称。2014年にボルボ・グループ・ジャパン(現:(新)UDトラックス)と合併し法人格消滅。
ここでは、民生デイゼル工業以降の、同社による2ストロークディーゼルエンジン搭載車についてもあわせて記述する。
- 1935年(昭和10年) ディーゼルエンジン製造を目的として埼玉県川口市に日本デイゼル工業を創立
- 1936年(昭和11年) 上下対向ピストン式2サイクルディーゼルエンジンの生産を開始。社名を採ってND型と名づけられた。
- 1937年(昭和12年) サンプルとしてドイツのクルップからディーゼルバス[1]を取り寄せる。
- 1938年(昭和13年) ND1型直列2気筒60ps発売。日本初の無気[2]直噴エンジンとなる。
- 1939年(昭和14年) ND1型60ps搭載のトラック1号車LD3型(3.5 t積・後にTT6型に型式名称変更)完成。しかし完成までの道程は予想以上に厳しく、経営は難航した。LD3型トラック完成の翌月に初代社長であった足立は辞任。陸軍から砲弾の加工、中島飛行機から星型エンジンのコンロッドの生産等を請け負い窮状をしのぐ。
- 1940年(昭和15年) 戦時色が強まる中、新興財閥として伸長しつつ重工業へのシフトを模索していた鐘淵紡績(のちのカネボウ)は、日本ディゼルに着目して出資、経営権を獲得。直列3気筒4,100 cc 90 psのND2型を搭載したTT9型8 t積トラック、直列4気筒5,400 cc 125 psのND3型とバリエーションを増やし、生産を拡大していく。
- 1942年(昭和17年) 親会社の鐘淵工業への社名変更に合わせて鐘淵デイゼル工業 と社名変更。エンジン名もKD型となる。大出力の直4・KD5型165 psエンジンも造られるに至ったが、この頃生産自体が国の統制に置かれたトラック用ディーゼルエンジンは、4ストローク予燃焼室式のいすゞ(ヂーゼル自動車工業)系エンジンに集約されたため、鐘淵ディゼルではそれ以外で大出力を活かせるニッチ市場への供給を図らざるを得なくなった。自社でブルドーザーを製造してそれに搭載したほか、船舶用としても供給された。
- 1945年(昭和20年) 終戦後、残材で鍋釜造りを行って工場稼働を続ける。戦前のTT9型トラックも細々と再生産の準備を始める。
- 1946年(昭和21年) 社名変更。鐘淵工業は戦後大幅に整理縮小され、元の鐘淵紡績に戻り、鐘淵デイゼル工業も分離して民生産業 へと社名を変更する。エンジン単体を産業機械用に生産開始、得意のブルドーザーも生産を再開したがGHQから制止を受け、トラック・バスの生産に注力せざるを得なかった。
- 1949年(昭和24年) 旧中島飛行機の富士産業が機体製造技術を駆使してモノコックボディのふじ号バスを開発、技術的成功を収める。搭載されたエンジンは直列2気筒の民生KD2型エンジンであった。
軍部フラグ大杉ワロス!
伝承の力・工場長に聞く/愛工舎製作所 春日部工場工場長・飯塚繁雄氏 ...
https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00221387
愛工舎製作所(埼玉県戸田市)はパンや洋菓子の製造機械を手がける。海外からの研修生も受け入れる春日部工場(同春日部市)の飯塚繁雄工場長は、従業員の意識改革 ...
まあそういふ事でしょうな。(爆wwwwwwww
1 件のコメント:
誰がアレンジしてワシントンで会わせてあげてるんでしょうね(爆)
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