渡来人、100年早く奈良に移住か 最古級の建物跡発見
田中祐也
2018年11月29日10時59分
朝鮮半島出身の渡来人の影響を受けたとされる「大壁(おおかべ)」と呼ばれる建物跡とみられる遺構が、奈良県高取町の市尾カンデ遺跡でみつかった。町教育委員会が27日発表した。4世紀末に建てられた国内最古級の可能性があり、専門家は渡来人の定住時期を考える上での貴重な発見とみている。
町教委は7~11月、介護施設の建設計画に伴い、約1千平方メートルを調査。古墳時代の大壁建物跡16棟と掘立柱(ほったてばしら)建物跡8棟が出土した。
大壁建物は朝鮮半島にルーツがあるとされ、溝の中に多数の柱を据え、その柱を包み込むように土などを塗って壁面を造る構造に特徴がある。国内では5世紀中ごろ以降、多数の渡来人が定住したとされる奈良や滋賀などでみつかっている。市尾カンデ遺跡の一帯は渡来系集団「東漢氏(やまとのあやうじ)」の拠点とされ、これまでも高取町内では5世紀後半~8世紀末の約40棟の大壁建物跡が確認されている。
出土した大壁建物跡の1棟は東西約14・5メートル、南北約13メートルで、国内最大級の規模とみられる。4世紀後半~5世紀初めの土器片が出土したことから、町教委はこの大壁建物が4世紀末~5世紀初めに築かれ、渡来人の同町への移住時期が100年近くさかのぼる可能性が出てきたとみている。
猪熊兼勝・京都橘大学名誉教授(考古学)は「渡来人が祖国で開発された最新のモデルハウスを建てたことがわかった。韓国でも大壁建物の調査例が増え、日韓の共同研究が進むきっかけになるだろう」と話す。
現場はすでに埋め戻され、現地説明会はない。(田中祐也)
朝日新聞デジタル 2018年11月29日10時59分
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飛鳥の南に位置しており、町内にも古墳が多数見られる。また、飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる位置でもあった。渡来人の東漢氏がこの地域に定着した。『日本書紀』には、676年に高取山周辺の森林伐採を禁止する記述(日本最古の保安林的制度)が見られることから、古くから周辺の人口集中を支える地域として発展していたことが伺える。
またこの地に波多郷も有り波多氏一族が住んでいた。『日本書紀』推古天皇20年(612年)5月5日条に“薬猟(くすりがり)をして後、羽田に集い、引き続いて朝廷に赴いた”という記述がある。
この時の羽田を『和名類聚抄』では大和国高市郡波多郷としている。また『大同類聚方』によると、高市郡の波多神社には新羅伝来の「志路木藥」が伝わる。
『和名抄』に大和国高市郡波多郷は後世、波多庄を称し、至徳三年(1386年)文書に畑庄と見ゆ、(高取町市尾から羽内の辺り及び明日香村南部まで)波多郷稲淵山との記述が有る『五郡神社記』。
『大日本地名辞書 上方』 波多《ハタ》郷 和名抄、高市郡波多郷。今高取村舟倉村是なり。霊異記に高市郡波多里、又今昔物語高市郡八多郷に小島小寺ありと見ゆ、小島は今高取村に大字存す。
また波多神社[1]の有る冬野の麓には畑という地名が残るのでこの辺りまで波多郷であったと思われる。
中・近世
大和国内で有力であった越智氏の勢力圏に属する。越智氏の本城は貝吹山城(橿原市との境に位置)であったが、その支城として高取山城が築かれていた。越智氏は北部の筒井氏とたびたび対立していたが、これに敗れ衰亡していく。豊臣秀吉の弟秀長が大和の国主となり郡山城に入ると高取周辺もその領地となり、高取山城も改修の手が加えられ日本三大山城に数えられる高取城が姿を見せた。なお同城には秀長の家臣本多氏が入った。
江戸時代には引き続き本多氏が続くも断絶、天領の時期を経て譜代の植村氏が2万5千石で封ぜられる。この高取藩は一時分知により2万500石となるが再度加増を受け2万5000石に復帰、明治維新まで続いた。
近代
江戸時代末に起こった天誅組事件の舞台の一つとなる。五條代官所を襲撃した天誅組の一団が高取城を目指し進撃するも高取藩兵の迎撃を受け敗退、吉野方面に退却していった。沿革
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、高取村・壺阪村・上子島村・下子島村・清水谷村・土佐町・土佐村・観覚寺村の区域をもって高取村が発足。
- 1891年(明治24年)6月3日 - 高取村が町制施行して高取町となる。
- 1954年(昭和29年)10月1日 - 船倉村・越智岡村と合併し、改めて高取町が発足。
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2017年9月8日金曜日
羽田孜元首相@青山ライン
http://tokumei10.blogspot.com/2017/09/blog-post_96.html
、、、(爆wwwwwwwwww
1 件のコメント:
いったいどこからが”計画的関与”だったのか気になる
まさか最初からかな
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