台湾脱線事故 「列車に不具合」運転士から連絡 車両は日本製
台湾北東部で21日、8両編成の特急列車が脱線して18人が死亡、180人以上がけがをした事故で、台湾の鉄道当局は、事故の前に運転士から列車の不具合を知らせる連絡があったことを明らかにし、事故との関連を調べています。
北東部の宜蘭県で21日夕方、8両編成の特急列車が脱線し、台湾当局によりますと乗客366人のうち18人が死亡し、187人がけがをしました。
現場では、21日夜から建設用の大型機械を使って脱線した車両をつり上げて移動させる作業が行われ、22日朝から反対側の線路を使って列車の運行が再開されました。
また、22日朝は蔡英文総統が現場を訪れ、事故の状況について担当者から報告を受けました。
蔡総統はこのあと病院を訪れ、亡くなった乗客の遺族と面会したほか、けがをして治療を受けている乗客を慰問しました。
事故の原因については明らかになっていませんが、台湾の鉄道当局は21日夜の記者会見で、事故の前に運転士から列車の不具合を知らせる連絡があったことを明らかにし、列車に何らかのトラブルがあった可能性を示唆しました。
脱線した車両はJR東海の子会社「日本車輌製造」が製造し、去年、大規模なメンテナンスが行われたということです。
鉄道当局などは運転士から話を聞くとともに、列車に取り付けられていたレコーダーを調べるなどして列車の不具合と事故との関連を調べています。
■乗客「突然スピード速くなり横転」
事故があった列車の先頭から2番目の車両に乗っていた35歳の女性が、手当てを受けている病院でNHKのインタビューに答えました。
この女性は「事故の直前、突然列車のスピードが速くなったと感じ、車両が激しく揺れました。列車は左側に倒れ、私は転げ落ちました。そのあと、車内が暗くなりました」と事故が起きた当時の状況を話していました。
また、この女性は「別の乗客が『この車両には問題があるかもしれない』という車内アナウンスを聞いていた」と話していました。
2018年10月22日 12時06分
NHK NEWS WEB
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181022/k10011680661000.html
奥田 正香(おくだ まさか、弘化4年3月(1847年) - 1921年(大正10年)1月31日)は、明治時代に活動した日本の実業家。
元は尾張藩の藩士。味噌・醤油製造で財を成し、その後名古屋で多くの有力企業の設立に関与して「名古屋の渋沢栄一」と呼ばれた。名古屋商業会議所(後の名古屋商工会議所)の会頭を長く務め、愛知県会議員としての活動歴もある。
奥田正香は弘化4年3月(1847年)、尾張国春日井郡鍋屋上野村(現・愛知県名古屋市千種区)の和田家に生まれた。幼名は謙之介で、のちに尾張藩士の奥田主馬(おくだ しゅめ)に引き取られた。幼少時より学門を好み、丹羽賢と親交を結んで幕末には丹羽に従い国事に奔走した。1868年(明治元年)、藩校明倫堂の国学助教見習となる。このころ藩命により甲信地方へ勤皇誘引のため遊説に出かけたが、信州の旅館で商人から横浜での生糸貿易の状況を偶然聞いたことが後の財界入りの素地となったという。維新後はしばらく役人生活を送り、1870年(明治3年)11月から名古屋県(現・愛知県)、翌年からは安濃津県(現・三重県)に赴任した[1][2]。
官吏を辞した奥田は、名古屋で味噌・溜醤油の製造を始めた[1][2]。明治時代初期の当時、味噌・醤油製造業は名古屋における主要工業の一つであった。奥田が開業した店は繁盛し、1890年(明治23年)には、醤油については名古屋で第4位の生産高をもつ業者となっていた[2]。1880年(明治13年)10月、愛知県会議員に当選。再選ののち1888年(明治21年)1月まで県会議員を2期務めた。任期中の1881年(明治14年)11月から翌年9月にかけては県会区部会議長に就任している[3]。
味噌・醤油製造業で資産的基盤を築いた奥田は、1880年代末から事業を多方面に広げた。まず1887年(明治20年)尾張紡績を設立、以降名古屋生命保険、名古屋倉庫、明治銀行、日本車輌製造、名古屋電力、名古屋瓦斯、福寿生命保険など数多くの会社経営に参加している。経済関係の公職では、1891年(明治24年)4月名古屋商業会議所(現・名古屋商工会議所)の会員第1回選挙で当選。同年7月の役員選で会頭に推挙されたものの奥田は辞退したが、1893年(明治26年)7月の役員選で再び会頭に推挙されると今度は承諾し、名古屋商業会議所会頭に就任した。在任期間は1913年(大正2年)10月までのおよそ20年間で、その間、電話架設、熱田港(名古屋港)改修、鉄道誘致、日本銀行支店誘致などの重要案件があった[1][2]。その他、1893年名古屋株式取引所の設立に参加し初代理事長となった[2]。
奥田は新人起用に積極的であり、奥田に取り立てられた鈴木摠兵衛・安東敏之・上遠野富之助・兼松煕の4人は「四天王」と呼ばれた。また、名古屋電力および名古屋瓦斯設立時の斡旋(両社は1906年(明治39年)設立)が契機となり、愛知県知事深野一三と名古屋市長加藤重三郎に接近、政界と深い繋がりを持って商業会議所会頭の奥田と知事・市長の関係は「三角同盟」と称された[1][2]。
1913年(大正2年)、大須にあった遊廓(旭廓)の移転にからむ汚職疑惑が発覚する。この事件では前市長で当時名古屋電灯社長の加藤重三郎と前知事で当時貴族院議員の深野一三というかつての「三角同盟」のうち2人と、腹心の「四天王」のうち安東敏之と兼松煕の2人を含む計5人が起訴された。最終的に5人には無罪判決が下され、奥田自身は取り調べのみで起訴されなかったが、奥田に与えたショックは大きく、事件の後一切の職務から引退して覚王山において仏道生活を送った。1921年(大正10年)1月31日死去[1][2]。
主な関連企業
紡績
1887年(明治20年)3月、奥田の主唱により資本金50万円で尾張紡績株式会社が設立された。同社は熱田に紡績工場を建設。1891年(明治24年)の濃尾地震で被災するものの翌年に復旧した。しかし工場の効率が悪く、経営は順調ではなかった。このため1905年(明治38年)10月、尾張紡績は三重紡績株式会社に合併された[4]。1年半後の1907年(明治40年)1月、奥田は三重紡績の取締役に就任、1909年(明治42年)には取締役会長となるが、1912年(大正元年)に退任し常務取締役であった伊藤伝七に代わった[5]。この後三重紡績は大阪紡績と合併し、東洋紡績株式会社となっている。
車両製造
名古屋の周辺で鉄道建設が盛んになり鉄道車両の需要が高まっていたことに着目した奥田は、上遠野富之助の協力の下1896年(明治29年)7月、資本金50万円で日本車輌製造株式会社を設立し、その初代取締役社長に就任した。同社は設立後まもなく操業を開始。明治末期に赤字に転落するもののまもなく回復し、社業の確立がなったとして奥田は1910年(明治43年)10月に社長を退任、上遠野が2代目社長に就任した[6]。ところで会社設立にあたり愛知県に提出された会社設立申請書がほぼ同時期に提出された鉄道車両製造所の設立申請書と酷似していた。これについて県が調査した結果、官設鉄道を井上勝と共に辞職していた野田益晴が鉄道車両製造会社の計画を地元の経済界の重鎮である奥田にもちかけたところ、奥田も設立計画をもっており共同で経営してもいいという話となり交渉することなった。ところが株の割当でおりあわず、別々で会社を設立することになったという。奥田の元には上遠野に筆写させていた鉄道車両製造所の設立計画書があり、これを元に設立願書は作成されたという[7]覚王山地区は、シャム国国王ラマ五世(ラーマ5世)がから日本国民へ寄贈された1898年(明治31年)にインドで発見された仏教開祖釈迦の遺骨仏舎利を安置するため1904年(明治37年)に創建された覚王山日暹寺(現在の覚王山日泰寺)と共に開発が進んだその周辺地区を指し、その山号にちなんでこの名称で呼ばれるようになった。
正式な町名で「覚王山」が付くのは覚王山通(広小路通(愛知県道60号名古屋長久手線)沿いの一区域)のみで、その他の地域は正式な地名としては覚王山は付いていないが、地下鉄の覚王山駅や「山門町」を中心とする「覚王山商店街」の様にこの地区を表す名称として使われ、定着している。
ラーマ5世(タイ語: รัชกาลที่ ๕)は、チャクリー王朝の第5代のシャム国王。チュラチョームクラオ、ピヤマハーラートや、幼名であるチュラーロンコーン(タイ語: จุฬาลงกรณ์, ラテン文字転写: Chulalongkorn)の名でも呼ばれる。
チャクリー改革などを通してタイを近代化させた名君として現在も同国で評価が高い。タイ国外においても、1944年の小説『アンナとシャム王(Anna and the King of Siam)』の影響で、奴隷解放を行った名君として知られる。
かつて発行されていた10バーツ紙幣の裏面に騎馬像が、また100バーツ紙幣の裏面ではラーマ6世と共に肖像が使用されていた。
チュラーロンコーン大学(タイ語:จุฬาลงกรณ์มหาวิทยาลัย、英語:Chulalongkorn University)とは1917年に設立されたタイ王国において最も古い歴史をもつ、権威ある国立大学である。現在19の学部と多数の研究施設があり、キャンパスはバンコク市街に位置している。大学名はチュラーロンコーン大王(ラーマ5世)に由来し、後継者であるワチラーウット王(ラーマ6世)によって設立された。国内第1位である[1][2][3][4][5][6]。
、、、(爆wwwwwwww
2 件のコメント:
奥田 喜一郎 トヨタ 大丸
神を殺した連中の思い通りにはならないという事だ。
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