主に朗読指導を行う「石塚運昇 リーディングカンパニー」主催。参加者によるリーディング劇も行っており、舞台俳優・声優の経験を元に演出、演技指導を手がける。
高校時代に山岳部でインターハイに出場したことがある[3]。
その頃、初めて人前で芝居をしたのがきっかけとなり、役者としての情熱が沸き起こる。劇団薔薇座を経てシェイクスピア・シアター出身。アフレコの仕事を始めた当初から、舞台とのギャップに悩みながらも徐々に本数を増やしていったが、『ポケットモンスター』で初めてブラウン管側の視聴者(子供達)を意識するようになったと後に語る。
主に低く渋い声を生かした壮年以上の役柄が多い。吹き替えではリーアム・ニーソンやケヴィン・スペイシー、ローレンス・フィッシュバーンを担当している。また、映画を中心にCMナレーションも多く担当している。
郷里大輔死去後、持ち役の一部(ミスター・サタンなど)を引き継いだ。
2010年1月1日より、長年所属していたアクセントを退所し、青二プロダクションに移籍している。
2018年8月13日、食道癌のため死去[2]。
実家がバイクショップを経営していたために自身も若い頃からバイクに乗り始め、30歳過ぎまで熱中していた。また、ゴルフも趣味だという。実家には手掴みで捕ったというイワナの魚拓がある。
声をつとめる『ポケットモンスター』のオーキド博士に自身が扮した姿で、たびたびテレビ番組やイベント等に顔出し出演している。
出口典雄(でぐち のりお、1940年5月2日 - )は日本の演出家。劇団シェイクスピア・シアター主宰、同劇団附属演劇研究所講師。
島根県松江市生まれ[1]。東京大学文学部美学科卒業。
- 1965年、文学座に入座。小田島雄志による「シェイクスピア研究会」に参加。
- 1972年、劇団四季へ移籍。
- 1975年、劇団シェイクスピア・シアターを旗揚げ。渋谷の小劇場ジァン・ジァンを拠点に『十二夜』の上演をスタートとしてシェイクスピア戯曲全37本の上演を目指す。翻訳は小田島雄志が担当。
- 1978年、第13回紀伊國屋演劇賞演出部門個人賞受賞。
- 1981年、『アントニーとクレオパトラ』の上演をもって全37作品の上演を達成。一人の演出家によるシェイクスピア全作品の演出・上演は世界初である。
- 現代風の演出に対して、福田恆存が批判し、NHK教育テレビで「Gパンハムレットを叱る」の題で、福田と出口の、それぞれのインタビューを組み合わせた疑似論争が行われた。
小田島 雄志(おだしま ゆうし、1930年(昭和5年)12月18日 - )は、日本の英文学者、演劇評論家。東京大学名誉教授、東京芸術劇場名誉館長。日本演劇協会(理事) [1]。豊島区芸術顧問[2]。
姉の阿部明子(あかし)は東京家政大学名誉教授[3]。妹の松村紀代子は、文藝春秋の編集者をへて、エッセイスト[4]。次男の小田島恒志も英文学者、早大教授[5]。恒志の妻の小田島則子も英文学者、翻訳家[6]。
生い立ち1930年(昭和5年)満州・奉天市(現瀋陽市)生まれ。父興三は南満州鉄道勤務。母都子(とし)は裏千家のお茶の先生。姉に阿部明子(あかし)。妹紀代子(松村紀代子:英文学者・エッセイスト)。5歳のとき新京(現長春)に移転して育つ。
新京第一中学校在籍中に、ソ満国境を超えてソ連軍南下の報に、8月14日新京から奉天へ一時避難したが、父興三の判断で満州国首都の新京へ後戻り15日夕刻新京に着いて終戦を知った。
終戦の翌年9月、葫蘆島(ころとう)から博多へ引き揚げ(葫芦島在留日本人大送還)、列車で東京へ。広島を通るときは窓が目隠しされたという。
引揚直後は鶴見の親戚に仮寓。旧制東京都立大森中学校4年に編入に転入。
1948年、佐世保に転居。同年、旧制福岡高校文甲に入学。1949年(昭和24年)7月、新制東大文Ⅱに入学。父興三のすすめにしたがい文Ⅱを選択。2年生の時にたまたま入手した坪内逍遥訳『シェイクスピア全集』や、続いて読んだ『ハムレット』の原書に感動し、シェイクスピア研究を志すようになった。
1953年、東京大学文学部英文学科卒業[1]。1956年、東京大学大学院人文科学研究科英文学専攻修士課程修了[1]。
経歴1956年~1959年、国学院大学専任講師、1959年~1961年津田塾大学専任講師、1961年~1963年、東京大学教養学部専任講師、1963年に同助教授、1978年に同教授[2]。1981年から、東京大学大学院比較文学兼任担当(外国文学受容史担当)[7]。1991年に定年して、東京大学名誉教授[2]。
1991年から文京女子短期大学教授、1993年から東京芸術劇場館長兼務、2002年に文京女子短期大学は文京学院大学短期大学に名称変更して同教授。2004年に同客員教授[2]。2007年、東京芸術劇場名誉館長[7]。
オズボーン、ウエスカー、アーデンなどイギリス現代演劇の紹介、翻訳につとめる[1]。1966年、池田健太郎とともに文学座「文芸部顧問」として参加、翌1967年「顧問」から「座員」に[8]。文学座でのシェイクスピア上演をめざしたが、1970年に退団[9]。
その後、1972年、演出の出口典雄からの誘いにより[10]、小田島訳シェイクスピア作品が初めて文学座により上演される[1]。
シェイクスピアの全戯曲37編の個人全訳に取り組み、1973年から「シェイクスピア全集」(全7巻,白水社)刊行開始。1975年からの、出口典雄が創設したシェイクスピア・シアターのシェイクスピア作品の上演に翻訳を提供したこともあり[11]、1980年に全作品を訳了した[1]。シェイクスピアの個人全訳は、故坪内逍遙についで2人目[1]。1980年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1995年、紫綬褒章を受章、2002年、文化功労者に選ばれる。2008年、新人を対象に小田島雄志翻訳戯曲賞が制定された。
駄洒落を得意とし、シェイクスピア作品に頻出する言葉遊び(パン)を「皇太子だろうが明太子だろうが」(ヘンリー六世より)といった調子で訳して話題を呼んだ。様々に訳されてきた『ハムレット』の有名な台詞「To be, or not to be」 を「このままでいいのか、いけないのか」と訳したことも知られる。テレビのバラエティ番組などにもしばしば出演、駄洒落を連発する飾らない人柄が愛された。
アントン・チェーホフの作品を愛好し、いわゆる四大戯曲をマイケル・フレインによる英語訳を元に日本語訳した。この英語訳からの日本語訳という作業は翻訳のあり方をめぐる議論を喚起した。大学院生の時にアルバイトで「池永保夫」という筆名を使ったこともあるが、誰もこれを「チェーホフ」とは読んでくれなかったという。
読売映画・演劇広告賞審査員の審査委員もつとめた[7]。
宝塚歌劇のファン。大河内豪(東京宝塚劇場支配人)とはファン仲間だった。
麻雀も愛好しており、「麻雀の神様」阿佐田哲也とも交流があった。テレビ番組「すばらしき仲間」では、阿佐田哲也、五木寛之、畑正憲と麻雀をし、小田島は麻雀最高の手「九蓮宝燈」をテンぱったという。
学生時代は詩人を志した。
妻・小田島若子とは共訳も多い。若子(旧制平林)は東大英文科の1年下であり、小田島が大学院浪人時代のシェイクスピア輪読会仲間である。若子の姉の平林千代は、作家・田宮虎彦の妻[12]。彼女は早くに両親を亡くして奨学金で大学へ行き、卒業後八丈島の高校教師になった。その若子に、小田島は八丈島まで行って求婚したという。子供が二人できて東大講師になっても貧しく、狭い官舎で仕事ができず、喫茶店で仕事をする習慣になったとか、英国に留学した友人の高橋康也から、ピーター・ブルックの舞台を是非観ろと言われ、あちこち借金して英国に渡ったなどのエピソードがある。息子の小田島恒志も英文学者、早大教授。
2011年7月1日から1ヵ月間にわたり日本経済新聞社朝刊・私の履歴書にて連載。
阿部 明子(あべ あかし、女性、1927年12月10日 - 2018年2月28日[1])は、育児学者、東京家政大学名誉教授。
東京出身、旧満洲(中国東北部)生まれ。旧姓・小田島。英文学者の小田島雄志は弟、エッセイストの松村紀代子は妹。
日本女子大学家政学部児童学科卒業、同大学院修士課程修了、東京家政大学短期大学部講師、助教授、教授、1998年東京家政大学名誉教授[2]。
2018年2月28日午後、多臓器不全のため、東京都目黒区の病院で死去[1]。90歳没。
Shakespeare Vatican
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、、、(爆wwwwwwwwww
3 件のコメント:
ケヴィン・スペイシーとセブンで共演
ブラッド・ピット
グウィネス・パルトロー
恋するシェークスピアに出演
グウィネス・パルトロー
勝山
恐竜
織物
「山」が勝つとか「十」が勝つとか言っても結局負け越しな件wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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