名優・田村正和が“引退宣言“「僕はもう十分にやったよ」「再放送を見てください」
本誌が原宿(渋谷区)の老舗中華料理店で俳優・田村正和(74)の姿をキャッチしたのは、4月中旬のことだった。
田村といえば、『パパはニュースキャスター』(TBS系)や『古畑任三郎』(フジテレビ系)など、数々のドラマで主役を張ってきた名優。
ダンディな男を演じさせたら日本一の彼がいま、人生の岐路に立たされているというのだ。
「実は、田村さんはごく一部の人にだけ芸能界引退を告げているんです。直接的なキッカケとなったのは、今年2月放送の『眠狂四郎 The Final』(フジテレビ系)。視聴率もまったく振るわず、納得のいく演技もできなかった。これ以上俳優を続けるのは美学に反する、という気持ちのようです」(テレビ局関係者)
実際、この日の食事会も、身近なスタッフが彼の功績を労(ねぎら)うものだったという。
日本を代表する俳優としては、あまりにあっけない終わり方。
はたして、本人の心境はいかばかりか。
本誌は会食の数日後、都内の自宅から日課の早朝ウォーキングに出かける田村を直撃した。
――田村さん、先日の原宿での会食についてお聞きしたいのですが。
「……うん、なに?」
――あの会食は、引退を決意された田村さんを労ってのものだったとのことで。
「いや……僕が主演した『ニューヨーク恋物語』(’88年、フジテレビ系)ってドラマがあったでしょ。いまでもそのスタッフと、年に一度食事会をしてるの」
――では引退を決意されたというのは?
「うん……自分の中で、辞めてもいいかなと思ったんだよ。僕のことを気にかけてくれているスタッフがいてね。その人たちに今年の年賀状で『のんびりしたい。無職の日々が楽しみだ』って書いたの」
――田村さんの活躍を見られなくなるのは、ファンにとって寂しいニュースかと。
「自分としては、もう十分にやったなと。『眠狂四郎』は、20代で初めて出演して、40代、50代とやってきた。でも、2月の『The Final』では、完成前の試写を見て『これじゃダメだな』と痛感したんだ。オンエアを見る気にさえならなかった。自分にしかわからない、『これはもうアカンな』という感覚……」
――それが引退という気持ちに繋(つな)がった。
「そう。長い時間かけて感じてきたことが、あの作品でハッキリした。でも、(引退を)大っぴらに言うのは趣味じゃないから。まあ、宣言してもいいんだけどね」
――もう田村さんの姿は見られなくなる。
「残念だけど、再放送を見てください。良い作品も、悪い作品もあるけど……」
およそ60年もの長きにわたり、俳優としての生き方を貫いた田村。
多くを語らず、潔(いさぎよ)く――。
なんとも彼らしい“男の引き際“となった。
http://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180428-00010000-friday-ent
今 東光(こん とうこう、1898年(明治31年)3月26日 - 1977年(昭和52年)9月19日)は、横浜生まれの天台宗僧侶(法名 春聽[注釈 1])、小説家、参議院議員。大正時代後期、新感覚派作家として出発し、出家後、長く文壇を離れるが、作家として復帰後は、住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など 奥州を題材にした作品で知られる。
作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。
経歴
新進時代
横浜市伊勢町(野毛山・伊勢山皇大神宮下)にて代々津軽藩士山奉行家系の父・武平(ぶへい)、母・綾の間の3人兄弟の長男として生まれた。四男 信巳(のぶみ)は早世。しばしば文学史年譜などに「横浜市伊勢崎町生まれ」とあるが、あきらかに間違いで、現在の横浜市中区伊勢町・宮崎町には、日本郵船会社(NYK)の社宅があった。父武平(明治元 9/4 生)は船長職の最古参で[注釈 2]、国内五港定期航路 品川丸を経て、海外航路 香取丸のキャプテンを務める。来日時のラビンドラナート・タゴールと知遇になったり、第一次世界大戦時に船がドイツの無差別攻撃で巡洋艦エムデンに追われたが、智略によってこれを回避したりした。また、南インド・マドラスに寄港、船の修理で船渠(ドック)入りした折、アディアールで神秘思想に触れ「神智学協会 THE THEOSOPHICAL SOCIET 霊智学会とも呼称」会員となる。以後「胡桃船長」の異名をとるほどに菜食主義に徹した有数の神智学徒としても知られた。アニー・ベサント、ジッドゥ・クリシュナムルティと親交を深め、1914年にベサントがクリシュナムルティを救世主として作った星の教団に入団[1]。東京市本郷区西片町に「神智學協会東京ロッヂ 1920」を開設(星の教団から移行)、鈴木大拙夫人で神智学者だったベアトリス・レイン(Beatrice Lane)とも交流した。母、綾は、函館・遺愛女学校(遺愛学院)、明治女学校に学んだ才媛で佐藤紅緑(サトウハチロー、佐藤愛子の父)とは小学校の同級生だった。東光は父の転勤に沿い、幼年・少年期を小樽・函館・横浜・大阪と転じ、10歳より神戸で育つ。この頃、神戸の御影に家があり、父同士が友人だった郡虎彦の影響で文学に関心を持ち、永井荷風、谷崎潤一郎を耽読、漢文に長け北原白秋、室生犀星と文通を試みるほどの早熟振りであったが、牧師の娘と交際したことなどから関西学院中学部を第3学年の1学期の終わりで諭旨退学になった。兵庫県立豊岡中学校に転校するも地元の文学少女と恋愛したことから素行が悪いとされ退校処分を受ける。こののち正規の教育を受けることなく、本人の記すところに拠ると「以後独学」とある。1915年、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会/太平洋美術会」(中村不折)、「川端画塾/川端画学校」(主任教官 藤島武二)に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児、関根正二らと親交を結び、生田長江に佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。またこのころ東郷のとりもちで、本郷三丁目の西洋料理店 燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも短期間交際した。(芥川龍之介がこのエピソードをもとに 短編『葱』を創作。)1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」が掲載される。この間、一家は神戸から東京市本郷区西片町に引越し、東光も実家に戻った。1918年秋、駒込、佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯、師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年、神戸時代の知人(二弟の同級生)池田虎雄=麗進(大阪 千日前、日蓮宗 妙見宮 蓮登山自安寺)の紹介で、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と号し、芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。
1921年、川端の強い推薦により、ともに第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「唐代小説」等の訳出を担当し、帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖だった。1922年秋『新潮』に発表した随筆「出目草子」を認められ、菊池寛の訪問を受け『文藝春秋』創刊に参画。その後石浜金作らと新進作家による『文藝時代』創刊に参加して、1924年「軍艦」、1925年「痩せた花嫁」などを発表。1924年創刊の『苦楽』に発表した「朱雀門」も高く評価され、新感覚派文学運動の作家としての位地を得る。
しかし、菊池寛が『文学講座』の刊行に際して東光が正規の文学士ではないという理由から執筆メンバーから外したこと、また『文藝春秋』1924年11月号が掲載した「文壇諸家価値調査表」というゴシップ記事(執筆は直木三十五)に腹を立て反駁文を『新潮』に掲載したことなどをきっかけに激しく菊池寛ら「既成文壇の権威」と対立し袂を別ち、『文藝時代』も脱退した(文藝時代#『文藝時代』創刊をめぐる騒動を参照)。新潮社の中村武羅夫らによる「不同調」に参加すると同時に、神楽坂・白銀町に文党社を興し同人誌「文党」を創刊。村山知義が表紙画を担当、間宮茂輔、サトウハチローらが参加し、参加者がプラカードをぶら下げて「文党」の歌(桃太郎の節)を歌いながら街頭を練り歩くなどもした。「苦楽」に掲載した「異人娘と武士」は阪東妻三郎プロダクション第1回作品として映画化されて大当たりし、この縁で阪妻プロの顧問となり、一時京都嵯峨野にも住む[注釈 3]。また関東大震災の時に一緒に逃げ歩いた、元帝国劇場女優の人妻とのちに結婚する。1925年に処女作品集『痩せた花嫁』(金星堂)を出版し好評を受け、雑誌からの執筆依頼も増え、1926年には初の新聞小説『愛経』(東京日々新聞、大阪日日新聞)を連載。
1927年、芥川龍之介の自殺に遭い、この頃より出家を志す。また「文党」に集まっていた社会運動家の影響でプロレタリア文学にも関心を強め、新感覚派の片岡鉄兵、鈴木彦次郎らとともに「左傾」を声明し、1929年に日本プロレタリア作家同盟に参加、作家同盟の機関誌『戦旗』に戯曲「クロンスタットの春」、書き下し長篇として南部藩の百姓一揆を題材にした『奥州流血録』などを発表。プロレタリア大衆文学の先駆的作品とされる[2](ただしこの著作は生出仁によるものであったという説が有力[3])。また、映画の関係から、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合の委員長もつとめていた[4]。しかし、妻フミ子の嫉妬と極端な独占欲により文学関係者との交際を妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢が決定打となって次第に文壇に距離を置く。この時期、妻の実家があった茨城県結城郡大花羽村、鬼怒川の辺に書院を建て独居していたが、同地の古刹、天台宗 正覚山蓮華院安楽寺(現茨城県常総市大輪)住職、弓削俊澄僧正の知遇を得て、非常勤私設秘書を買って出た。
出家
1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した[5]。また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。1933年8月、四度加行(しどけぎょう)を履修。1934年2月、佐々木味津三の訃報に接す。3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り[注釈 4]、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。また、阪東妻三郎を主役にトーキー「支倉常長」の製作、バチカンロケも視野にする構想を発表したりした。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った[注釈 5]。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨う最なか、数ヵ年を秘教義や易学の研究に勤しんだ。静養の明けた1941年1月31日、権律師春聽として岐阜県郡上郡嵩田村(現、岐阜県郡上市美並町)、天台宗大日坊(古来、加賀国白山寺白山本宮〔現 白山比咩神社〕、越前国平泉寺白山神社と並び白山信仰の拠点であった、美濃国白山中宮長瀧寺=泰澄開基の末寺、長瀧一山八坊の一)の住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、易学書『今氏易学史』を著し(谷崎潤一郎、佐藤春夫序文)、神智学の書籍『神秘的人間像』(Theosophical PUBLISHING HOUSE (TPH)刊 C・W・リイドビーター 原著)を訳出、『易学史』は殷代から明代にかけての史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要が刊行された。華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。古美術関係の著述もあり、1943年『擇艸』華道御門流誌(水谷川紫山・千宗守ら同人 松田幸丸編集・擇艸舎発行)に執筆。佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。この時代の交友関係に、青山圭男、鳥海青児・美川きよ夫妻があった。1942年水の江瀧子が組織した「劇団たんぽぽ」の命名者でもあった。
1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)、東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。
戦時中は東京・穏田(渋谷区神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、下谷区根岸 (台東区)・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省(おさだ りゅうしょう)との親交を深めた。龍省は秀れた法華行者で霊能家であり、「易学史」執筆や、少年期の出逢い以来の神智学等「秘教義」研鑽時代の東光坊春聽法師の盟友的存在であった。しばしば、龍省の巫呪、口述する"古代秘史"をノートに書き留め続けていたという(夫人談)。1945年5月25日の空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書、史料等も焼失したという。当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工会社(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を務めていたことから、調布町飛田給の同社宅に疎開した。同じころ、妻フミ子が離婚を申し出た。
戦後1946年秋、母綾の秘書役を務めていた千葉県印旛郡志津村(佐倉市志津)の旧家の人、蜂谷清(はちや きよ)と再婚。かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢忠雄は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったという。この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって(1947年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた(個人雑誌「東光」1953・「歓喜世界」1983~89)。
1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想し「悪童」を連載した。稿料は月5千円であったという(夫人談)。亡父の墓所多磨墓地、武蔵国分寺跡はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生れた。同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画したという(本人談)。
調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵には多くの映画人が訪れた。時代は1946年から1948年の東宝争議の真っ只中であり、東宝、新東宝、独立プロの関係者が出入りしていたという。かつての調布・二本松の軍需工場、昭和鍛工会社跡地は、戦後、伊藤武郎による独立映画の撮影所となった[注釈 6][6]。
1950年秋から一年間、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、 天海大僧正の直弟子、念海和尚による再興[注釈 7]、無畏智道上人止住隠棲[注釈 8]など、歴代、高僧の隠居寺であった。保田與重郎が 『春聽上人』としての西下を促した。與重郎が後に著した『現代畸人伝』に当時の消息が綴られている。同時期、河上徹太郎、伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想、高見順も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。天台院主として春聽上人は1952年5月1日、東光山(紫雲山)天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟、夭折した近衛直麿の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」[注釈 9]といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。
文壇復帰
1953年2月「役僧」が30年ぶりに『文藝春秋』に掲載され、文芸家協会編「創作代表選集」にも収録された。『大法輪』に「天台大師」「師の御坊」、『祖国』に幕末の志士河上彦斎を描く「人斬り彦斎」を連載、「破戒無慚」「人の果て」を発表。1955年10月2日、比叡山に上山。天台宗随一の古儀、法華大会(ほっけだいえ)「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)に臨み教学論議(僧侶の試験)を及第し阿闍梨となり、1956年1月、京都の宗教紙「中外日報」第二代目社長に就任した。天台院を訪れた谷崎潤一郎により「闘鶏」の原稿が中央公論社に送られ、『中央公論』1957年2月号に掲載された。その前年1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。
それまで天台院では法施への対価として、宝前に河内産の茄子や胡瓜、ときに軍鶏肉があがる、長閑、朴訥としたものだったが、東光和尚ブームの到来に一夜にしてバタくさいものになったと夫人は語った。「だって、それまでお布施ったって30円くらいでしょ。それが印税が入ってくるのですものね。」「お寺の修理だ、復興だって出てゆく。本山から給料が出るわけじゃないし。ネ。」「私が好きな作品は『悪童』。一番いい時代でした。」「毎日、毎日が面白かったのよ。言葉なんてちっともわからないのにね。」「東光は。オイ。今日はいい日だな。いい日だな。って言うけれど、何もいいことなんてないのよネ(笑)。檀家の話は、ケンカだ。バクチだ。ヨバイだ、ジョロカイだって、そればかりでしょ(笑)。放送局(BK:NHK大阪)が取材に来て録音してっても放送できないっていうのヨ(笑)。」「それでいて、夜中になると、そのテープ、みんなで聞いてはゲラゲラ笑ってるんだって(笑)。あのテープ、どこかに残ってないでしょうかね。」(「驚きももの木20世紀」「知ってるつもり」等、民放取材にこたえての夫人談)
作家活動再開後は「山椒魚」「春泥尼抄」「悪名」「こつまなんきん」「河内風土記」など、八尾周辺の河内地方に取材した、一連の「河内もの」を立て続けに発表し、舞台化、映画化も相次いだ。辺鄙な農村、八王子市恩方に篭り第2回毎日出版文化賞を受賞したきだみのるの「気違い部落周游紀行」と、上方河内在の異色の僧が描く「河内もの」は東西の雄と評され衆目を蒐めた。大宅壮一、福田定一(司馬遼太郎)、村上元三、寺内大吉をはじめ、天台院を訪れる識者は多士済々、柳原白蓮の姿もあった(本人談)。文学講座も開かれ「日本書紀」の講義では、大和・河内の地理にもとづく、在郷ならではの「オモロ講座」が展開した。(鈴木助次郎談)
1957年に東京・京都で開催された国際ペン大会京都大会では、日本ペンクラブ会長川端康成を援け、関西財界人に呼びかけ大会を成功に導いた。その流れは1960年、山田耕筰、和田完二らとの「大阪文化協会」設立、第1回大阪文化まつり開催となってゆく。1958年には帝塚山学院、四天王寺学園、相愛女子短期大学講師として、比較文学を講義。
この時期の作品として、古代史や河内キリシタン伝承に取材した「弓削道鏡」「生きろマンショ」、また「はぜくら(支倉常長)」「東光太平記(楠木正成)」など歴史小説を数多く創作。天台院の名は全国に知られた。同院の再興につづき、貝塚市の水間寺、密蔵院(春日井市)、明眼院、安養寺など特命住職として次々に兼務する荒廃した古刹の復興に身を挺し、印税を注ぎ込んでの寺院経営を手がけ、権僧正を拝命する一方、「オレは大工坊主みたいなものだよ。オイ」と周囲を笑わせ、ケムに巻いていた。取材に赴く先々、また執筆の途次、杖を、筆を留め、しずかに読経することしばしばであったという[注釈 10]。『悪名』は1961年に勝新太郎、田宮二郎出演の映画(大映)となりシリーズ化されるほど大ヒットした。僧侶としては、1964年春、エジプトからヨーロッパ各国巡錫の旅では、4月28日、バチカン市国ローマ法王庁にて、教皇パウロ六世に謁見、バチカン放送局の放送機材を松下幸之助が寄贈したこともあって日本人初の放送を行った(伝)。1965年11月、僧正となり、1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めた(1968年5月、落慶大法要執行)。谷崎潤一郎、川端康成、梶山季之の死去に際しては戒名を贈り、葬儀の導師を勤め、弔辞を読んだ。同じ天台宗僧侶である弁慶を描いた『武蔵坊辨慶』は、参議院議員活動による中断を挟んで1964-65年、及び76-77年に新聞連載されたが、死去により未完。また両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆するが、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代までを描いたところで死去したため、未完となっている。1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。
1968年には参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補、当選し1期務めた。選挙時には川端康成が選挙事務長となって運動に協力、街頭で応援演説も行った。議会での最初の発言は「自衛隊は人を殺すのが商売なのだから、安心して殺せ」であり、型破りな性格と発言はつとに有名だった。「毒舌説法」でテレビや週刊誌でもコメンテーターとして人気があり、1973年からは週刊プレイボーイの過激な人生相談「極道辻説法」でも知られた。生来の「喧嘩屋」でその特異な人物像から各界に多大な影響を及ぼしたため梶原一騎や笹川良一と並び少々の誇張も含め「昭和の怪人」として評されることが多い。
晩年
天台宗による「一隅を照らす運動」が1969年に始まると、その初代会長を務め(1973年まで)、そのための辻説法も行った。晩年には、S字結腸癌を患い国立がんセンターで2度の手術(1973・1974)を受けるも、比叡山・法華総持院東塔 昭和大再建(さいこん)、延暦寺における長講会(ちょうごうえ)、坂本・東南寺における「戸津説法」講師(こうじ)勤仕 1975。不動堂(護摩堂)、涅槃堂、大書院等、中尊寺諸堂の諸整備、岩手県浄法寺町の古刹、八葉山天台寺特命住職晋山、復興に着手、本尊・十一面観音菩薩像の造立発願 1976、と、あらたな時代に向けての天台教学改革提唱など、聰慧超脱、稀代の傑僧躍如たるものがあった。加えて、闘病、静養もままならぬなか、ヨーロッパ(耀盌展 1972)、ハワイ(天台宗海外伝道事業団 1975)と錫を巡らし、過密なスケジュールながらも、「作家は、ジャーナリズムに殺されてこそ本望」「ボクは生涯現役だよ」と執筆、テレビ出演、講演、口述を続けた。1975年から77年まで『海』に連載した、若いころの谷崎潤一郎を描いた『十二階崩壊』、週刊読売連載「友鏡 ― 宇野千代の巻」が絶筆となる。
1977年6月に体調を著しく崩し再々度の入院、そして急性肺炎を併発し、千葉県四街道市の国立療養所下志津病院で9月19日遷化した。寛永寺根本中堂瑠璃殿における本葬儀には、東叡山輪王寺門跡 杉谷義周大僧正が、法号「大文頴心院大僧正東光春聽大和尚(だいぶんえいしんいん だいそうじょう とうこう しゅんちょう だいかしょう)」を撰み大導師を勤めた。弔辞は、前夜パリから駆けつけた東郷青児が「十七歳の東光ちゃんは」と泪の裡に呼びかけ、椎名悦三郎が続き、皇太子からの供花、福田赳夫首相の献香、宗教界、文壇、政界、財界、芸能界ほか多数の参座者が続いた。坪内寿夫、竹中労、戸川昌子、安岡章太郎、藤本義一、田宮二郎らや、一般読者の青年も数多く参列した。
墓所は東京都台東区上野寛永寺第三霊園、柴田錬三郎の撰文による文学碑があり、中尊寺、天台寺、天台院、比叡山霊園(堅田)に分骨納骨、それぞれに供養塔が建てられ、三回忌、七回忌…と年忌が営まれた。寛永寺における折々の偲ぶ会には、松本清張、陳舜臣、半村良も駆けつけた。
なお文壇復帰からの作家活動や宗教活動を守り支えた きよ夫人は、2008年9月19日という夫の祥月命日と同月同日死去。「慈観院闊朗清妙大姉」の法号は、東叡山寛永寺一山圓珠院、杉谷義純住職(天台宗元宗務総長)の撰による。大和尚をして「この世で一番畏いのは、かあちゃんだよ!」と言わしめた、愛らしく剛い人柄そのものを表す。千葉県佐倉市での葬儀には、杉谷師が導師を勤め、中尊寺、天台寺、天台院等諸師による読経、法弟子瀬戸内寂聴尼も列座、法類、法縁が随喜し、多数の有縁の士が参列した。献花には福田みどり(司馬遼太郎夫人)の名もみられた。
作品
『お吟さま』は、千利休の娘の高山右近への愛と生き様を、河内出身の侍女の語りによって、一人の女の哀しい生涯が絢爛たる桃山文化を背景に描かれている。直木賞選考会では、選考委員達よりも文壇では先輩でもあり、今さらという意見もあったが、大佛次郎は「老熟した作家のものと称せざるを得ぬ」と評し、吉川英治、木々高太郎、川口松太郎らの支持も得て受賞する。この年の『中央公論』2月号に掲載した短篇「闘鶏」は、浅吉親分こと、岩田浅吉に教えられた闘鶏の魅力に取り憑かれて作家としての情熱を取り戻し、数年かけて取材執筆したもので、闘鶏を通して河内の風土を描いており、平野謙、高橋義孝はこの時代の秀れた代表作として推すなど高く評価されている。また河内出身の尼僧の愛憎、苦悩と生き様を描く『春泥尼抄』は映画化もされて話題になり、尼僧ブームを巻き起こした。
自伝的長編小説として『悪童』『悪太郎』がある。
、、、(爆wwwwwwwwww
1 件のコメント:
あらやだ、さっき全く同じ記事を見てますたw
きっと偶然絶対偶然)^o^(
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