大林の家系
かような市井の一商家に、家業と全く異なる土木建築業を興し、よく経営の才を発揮し、二十年にしてたちまち業界に確固とした地盤を築き上げ、今日の大林組の始祖となるような人物が出たことについて、一度その家系をみることゝしよう。
大林家は、元河内国志紀郡の人、林臣海主(延暦十二年〔七九三年〕勅して“朝臣”を賜わった。)を始祖とする林家から芳五郎の父徳七が分家して創設した。林家中興の祖林徳兵衛重則は、淀川過書船の取締、検閲、監視等を役向とする「元締」の役に任ぜられ、御用提灯を用い、帯刀を許され、士分の待遇を受けた。次代重孝を経て重淨がその役向を継いだが、重淨は別に海運業を営み家運を益々隆盛に導いた。正固これを継いだが、これに次ぐ篤固は海運業のほかに干物商を営み、産を成すこと歴代を抜いた。篤祐これを継ぎ、徳助に伝えた。徳助の代に至って海運業を捨て、塩、塩干魚類の販売を専業とした。徳七は、徳助の弟で、前述のとおり分家して大林家を創設し、「大徳」の家号で本家と同じく塩、干鰯類の販売を業とした。
これら先人中、重則、重淨、篤固の三人は人物、器量特に秀れ、豪放の風があり、理財にも長けた。芳五郎の禀性はこれらの先人達から受けたものが多いと思われる。
徳七は、明治六年(一八七三年)芳五郎十歳の春病を得、十月六日六十四歳で没した。問屋大徳は、妻美喜子がこれを継ぎ、経営よく七年に及んだが女性の身の心身の疲労濃く、且つ、市況芳しからず昔日の経営が覚束なくなって深い愛惜のうちに店舗を他に譲り、こゝに大林家最初の家業は始祖夫婦一代を限りとして終止した。
芳五郎の修業
芳五郎は、幼時西村太郎助翁塾及び西大組六番小学校に学んだが同窓に後年大阪財界に名を成した志方勢七、田中市太郎、金沢仁作の諸氏があり、芳五郎はこれらの人士と後年永く相遊交した。
十一才の春、芳五郎は当時の商家の慣習に従って大阪西区の呉服商麹屋又兵衛氏店に修業のため入店させられた。修業六年、十七才にして第三番頭に抜擢された。明治十五年十九才の秋、独立を志し、願い出て麹屋を退いた。又兵衛氏はいたくこれを惜しまれたというが、大林家再興のため独立し更に前途を図ろうとする芳五郎の情熱を止め得なかった。かくして、小売呉服店を自営し一年足らずに及んだが、芳五郎独立の年明治十五年(一八八二年)頃は西南戦争の際の濫発紙幣の整理期で、大阪は深刻な不況が三年に及んでいたこともあり、芳五郎最初の独立営業は失敗に終った。失敗は確かに世上の不況もあったが、芳五郎の性格が、呉服販売業に適しないことによるところが大きかったと思われる。
明治十六年(一八八三年)芳五郎二十才の七月、知人の紹介によって東上、宮内省出入りの請負人{註}砂崎庄次郎氏方に入店した。見習を経て、現場に出、出面、帳付、算盤など今日の現場における庶務会計に属する業務に従事した。
こうして芳五郎の人生航路は大きく転針し、土木建築業に身を置くことゝなった。
https://www.obayashi.co.jp/chronicle/70yrs/t1c1.html
要するにコレも豊洲・森友・加計同様、今上への忖度案件なんですね。(爆wwwwww
4 件のコメント:
SEED factor を持つ者は
アクティベート忘れたんですかね
トンネルだらけのリニアなんて
利益<維持費
になるんじゃないの? って思いから
リニアは日本じゃなくて米豪のような平坦な国(トンネルが少ない地区・区間)に行ってそこだけでやればいいのに
って前にも書いた気がする(どこに書いたやら)
しかし「利益<維持費」が忖度というのならなるほど売国今上らしい忖度案件ですね・・・
♪腐乱しーぬの場合はー♪
Wikipedia
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秦河勝
日本書紀の記述では、河勝の先祖にあたる秦氏は4世紀頃に秦国から百済を経由して日本列島の倭国へ帰化した有力氏族である[2]。弓月君の直系子孫にあたる。
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