日野西光忠氏死去(元宮内庁宮務主管)
日野西 光忠氏(ひのにし・みつただ=元宮内庁宮務主管)15日午前4時50分、肺炎のため死去、73歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻尚子(ひさこ)さん。
宮内庁で宮家の皇族方のお世話をする責任者の宮務主管を2004年から14年まで務めた。(2017/11/21-21:07)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017112101215&g=obt
日野西家(ひのにしけ)は、名家の家格を有する公家。藤原北家日野流、広橋家支流。家紋は鶴丸。江戸時代の家禄は200石。明治維新後、子爵。
南北朝時代末期に日野時光の三男、准大臣資国(贈左大臣)によって創設される。盛光、資宗と続くが資宗の子、朝光が早世したため中絶した。江戸時代に広橋総光の三男・右兵衛佐総盛が日野西を称して再興する。
明治17年(1884年)7月8日光善は子爵に叙せられる。
一般財団法人霞山会(かざんかい)は、日本の財団法人。東亜同文会を前身とし、日本とアジア諸国の国際交流を目的とする。事務所は東京都港区赤坂の赤坂霞山ビルに所在[1]。
財団の事業の一つとして、会議室・宴会場・レストランなどの施設を持つ霞山会館(かざんかいかん)を運営している。同会館は、霞が関コモンゲート西館(霞山会館ビル)37階に所在する。
財団法人の定款によれば、霞山会の目的は「わが国と中国をはじめとするアジア諸国との文化交流を通じてアジア諸国民との相互理解と友好の促進を図り、アジアひいては世界の平和と安定に貢献すること」である。また、会の事業としては、次の6つが挙げられている。
- アジア諸国にかかわる留学生、研究者等の相互交流の促進及びその支援
- アジア諸国にかかわる調査研究、図書の出版及び講演会、研究会等の実施
- 本邦及び海外における関係機関との連携
- 語学教育機関の運営
- 所有不動産の維持運営
- その他この法人の目的を達成するために必要な事業
東亜同文会(とうあどうぶんかい)とは、1898年(明治31年)から1946年(昭和21年)にかけて、日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体。上海に設立された東亜同文書院の経営母体であったことで知られる。現在の霞山会の前身である。
東亜同文会は、日清戦争・日露戦争後に清国に対して優越的立場を取り、なおかつ「支那保全(支那保全論)」を掲げて発足した、中期アジア主義の代表的な機関である。1896年から1898年にかけて清朝が欧米により勢力分割(いわゆる「瓜分」)され、それに続く戊戌の変法・戊戌の政変の騒動は、日本においても朝野の大きな関心事となった。これによって康有為・梁啓超らが亡命することになり、更には清朝打倒の革命を唱える孫文らが既に日本を拠点に活動していたことは、日本政府にとって二つの問題を同時に抱えることとなった。こうした問題を抱えながら、康・梁らの改革支援を主目標に掲げた「東亜会」と、大陸での事業経営などの活動を目的として発足した「同文会」という異なる二つの団体と、アジア主義の先駆である団体「興亜会(亜細亜協会)」や「東邦協会」の他、「善隣協会」の一部を吸収合併し、「東亜同文会」が発足した。
東亜同文会は支那保全を掲げていたが、義和団の乱で井上雅二らによる連邦保全策が失敗してから新たに浮上した満州問題を廻って、対露強硬の姿勢を取る近衛篤麿と平和論を主張した陸羯南が対立する。東亜同文会の思想は近衛が康に述べたような「アジア・モンロー主義」に近い新秩序を志向するものとなった。犬養毅が政府に活動資金を出すように働きかけ、外務省機密費で年に4万円が支給された。これにより、外務省の意向が会の役員人事にも影を落としていた半官半民の国策団体であった。日本政府は最初、康有為・梁啓超一派の亡命に対して協力的だったが、山縣内閣が北京政府の康・梁追放要求を求めたのに対して近衛篤麿がこれを受け入れ、康有為を自発的に離日させることとなった。この近衛の行為には陸を始めとして会の中からも大きな批判があり、陸のほか数名の脱会者が出た。このようであったから、東亜同文会は孫文の革命派に対する支援にも消極的になり、広東支部の廃止なども相次いだ。
近衞 篤麿(このえ あつまろ、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1904年(明治37年)1月1日)は、明治時代後期の華族・政治家。号は霞山。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。
アジア主義の盟主として活躍
篤麿の外交政策は、中国(当時は清朝)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。1893年(明治26年)に東邦協会の副会頭に就任[3]。日清戦争後、西欧列強が中国分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱く。1898年(明治31年)1月に雑誌『太陽』第4巻第1号に載せた論文「同人種同盟附支那問題の研究の必要」で「最後の運命は黄色人種と白色人種の競争にして此競争の下には支那人も日本人も共に白色人種の仇敵として認められる位地に立たむ」と日本と中国は同文同種と主張して同年に同文会を設立したが、同文会は、アジア主義の祖たる興亜会やアジア主義の巨頭である犬養毅の東亜会、さらに東邦協会と善隣協会の一部などを吸収して東亜同文会となり近衛篤麿は同会の会長に就任する。かくて、民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を企み、康有為との会談ではアジア・モンロー主義を主張した。東亜同文会はアジア主義的色彩の強い立場に立脚し、中国・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携しながら、1900年(明治33年)に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一(両江総督)や張之洞(湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた。そうした中1900年(明治33年)6月、中国の華北や満州(現在の中国東北部)を中心に義和団の乱が勃発、これに乗じたロシアが満州を占領下に置いた。これに強い危機感を抱いた近衛は政府元老の伊藤博文や山縣有朋らにロシアに対して強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが一蹴された。そこで篤麿は犬養・頭山満・陸羯南・中江兆民ら同志を糾合して同年9月に国民同盟会を結成し、日本政府に対する批判をますます強めた。さらに長岡護美に書簡を託し、満州を列国に開放することで領土の保全を図るよう、劉坤一や張之洞に働きかけた。張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの篤麿の案(根津一などがゴーストライターとして考えられるが)を清朝の中央に上奏し、採用を求めている。この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱も採用し、日露戦争後にはむしろ権益独占を図る日本に対する障害となった。また、1903年(明治36年)には玄洋社の頭山と平岡浩太郎や黒龍会の内田良平も名を連ねる対露同志会を結成。貴族院議長を辞任、枢密顧問官に任命された。戸水寛人らの七博士意見書にも関与していた[4]。
小川平吉と頭山らが篤麿を首班にした内閣をつくろうとした中[5]、1904年(明治37年)1月1日に42歳の若さで死去した(満40歳没)。中国に渡航した際に感染した伝染病アクチノミコーゼ(放線菌症)が原因であった[6]。近衛家の菩提寺である大徳寺(京都市北区)に葬られた。
篤麿の死後、多額の借財があり、頭山や五百木良三ら国民同盟会のメンバーが債権者を退散させたこともある[7]。
、、、(爆wwwwwwww
12 件のコメント:
ONEオワタ
って最初から分かりきったこと?w
名前悪すぎwww
腐臭を放つ女子(笑)に人気な歴史ある刀剣鶴丸ですな(爆)
日本郵船って最近みたような・・・
site://tokumei10.blogspot.com 日本郵船
いろいろありすぎました
JALのロゴそのまんまではありませんか
鶴屋吉信 宮内庁御用達
藩屏
藩屏 爵位
多国政党政要和友好人士祝贺中国共产党成立一百周年
霞山会中国留学奨学生 日中至誠基金 小沢一郎
霞山会 小沢一郎 河野一郎
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霞山会文化事業部門にようこそ. ... 反腐敗・汚職を掲げる太子党開明派と既得権益擁護を腐心する旧派の対立が、近頃表面化している汚職問題や人事の背景にあるという。
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