2017年8月21日月曜日

両角良彦氏 死去@811




両角 良彦(もろずみ よしひこ、1919年10月4日[1] - 2017年8月11日[2])は、日本官僚通商産業事務次官ナポレオン研究家。

長野県出身[1]。幼き頃は父・業作(のち陸軍中将)の転勤に伴い、東京府豊多摩郡杉並尋常高等小学校(現・杉並区立杉並第一小学校)、豊橋市立新川小学校宇都宮市立西小学校と転校した。また、この頃から持病である左中耳の根治手術を受け、当時顔の左半分にマヒが残るなどし、以後の人生において苦労した。宇都宮中学校に入学するも、東京府立第六中学校へ転校。第一高等学校首席を経て、1941年12月末、東京帝国大学法学部卒業。総長・平賀譲の出征学徒への送別の辞を聞く。在学中に高文合格、伯父で商工参与官も務めた今井健彦の縁で商工省に入省した。同期には、赤澤璋一(のち重工業局長、ジェトロ理事長)、原田明(のち通商局長、松下電工(現・パナソニック電工)副社長)、吉光久(のち中小企業庁長官)など。1942年1月、燃料局へ出向した。
戦後、GHQとの通訳を務め、反トラスト法・反カルテルの理念に、従来からの重要産業統制法以来、カルテルを是とする日本の秩序との整合性に苦労しながら、主に解説や翻訳を担当した。部下にのちに「ミスターエネルギー」と呼ばれた生田豊郎科技庁原子力局長、エネ研理事長)、1964年から経済白書を執筆しエコノミストで知られることになる金森久雄日本経済研究センター理事長)らがいた。
その後は、大阪府商工一課長、通産省官房調査課長などを経て、外務省に出向し在フランス大使館一等書記官に着任した。他省からは、山本鎮彦竹内道雄稲村光一財務官)、栗栖弘臣統合幕僚会議議長)らがいた。当時のフランス人のダンピング(ソーシャルダンピング)≒日本との偏見への対応に苦慮しつつも、官民協調の混合経済方式を勉強してきた。日本に戻り、通産省企業局企業一課長に就任。小長啓一アラビア石油会長)、濱岡平一日産自動車副会長)、末木凰太郎日本電子計算機社長)、内藤正久(元産業政策局長、伊藤忠商事副社長)などが部下にいた。フランスで学んだ経験を引っさげ、貿易や資本の自由化の前に企業に国際競争力をつけさせようと、のちに佐橋滋事務次官以下のスポンサー無き法案・特定産業振興臨時措置法(特振法)の下地作りに取り掛かる。
以後、鉱山局長時代の1967年10月に石油開発公団(石油公団)設立。官房長、企業局長を経て、1971年、第3次佐藤内閣時代に通産事務次官に就任。田中が通産大臣時代から、部下であった豊島格資源エネルギー庁長官)らと共に、田中角栄田中清玄らと日本独自の資源獲得の意味合いからインドネシア石油利権の獲得に動いたことでも知られている。1975年、電源開発総裁。
私の履歴書誌上にて、特振法案、国際石油備蓄基地、キャンドゥ重水炉CANDU炉)の頓挫が心残りであったことも併せて語っている。「資源派のドン」と云われる所以である。またナポレオンの研究者としても知られ、在パリの伊吹迪人から資料をわざわざ取り寄せるなど書き上げた『一八一二年の雪 モスクワからの敗走』(朝日新聞社)で日本エッセイストクラブ賞受賞。他に『反ナポレオン考 -時代と人間』(朝日新聞社)など。

また城山三郎原作の『官僚たちの夏』の牧のモデル。あだ名は「官僚たちの夏」で登場した「西洋カミソリ」、他に「カミソリ両角」、「両(もろ)さん」など。女流歌人の今井邦子は叔母にあたる。



今井 邦子(いまい くにこ、明治23年(1890年5月31日 - 昭和23年(1948年7月15日、旧姓山田、本名くにえ)は、徳島市出身の「アララギ」の歌人小説家。後に短歌誌「明日香」を創刊した。元通産省事務次官両角良彦は甥にあたる。









で、また性懲りもなくクーデターとか起こそうとしてたようですなあ・・・(爆wwww

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匿名 さんのコメント...

昭和のすごろく