2017年8月24日木曜日

小池百合子知事 被服廠跡地で開催される関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文の送付を取りやめ


【小池百合子都政】小池百合子都知事、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文断る
2017年8月24日 13時42分
産経新聞
小池百合子東京都知事

東京都の小池百合子知事が、市民団体で構成される実行委員会主催の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったことが24日、都への取材で分かった。

歴代知事は応じ、小池氏も昨年は送付していた。都は「知事は都慰霊協会主催の大法要で亡くなった全ての人に哀悼の意を表しているため、個別の追悼行事への送付を差し控える方針となった」と説明する。

追悼式は都立横網町公園(墨田区)で9月1日に開催。公園内に民間団体が建立し、昭和48年から都所有となっている朝鮮人犠牲者追悼碑があり、追悼碑には「あやまった策動と流言蜚語(ひご)のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われた」などと刻まれている。犠牲者数には諸説あり、都は「6000人が正しいのか、正しくないのか特定できない」との立場をとる。

都によると、追悼式には記録上、石原慎太郎氏、猪瀬直樹氏、舛添要一氏の歴代知事が追悼文を送付。外部から碑文の内容について疑問視する声が寄せられ、小池氏の知事就任後から対応を検討していた。

今年3月の都議会一般質問で、自民党の古賀俊昭都議が碑文の犠牲者数の根拠が希薄とし、「(追悼式の)案内状に6千余名、虐殺の文言がある」と指摘。「都を代表する知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、今後は追悼の辞の発信を再考すべきだ」と質問した。

小池氏は「毎年、慣例的に送付してきた。今後については、私自身がよく目を通した上で、適切に判断する」と答弁。都によると、7月、個別の追悼行事への追悼文の送付を差し控える方針が決まった。都は「今後、他の団体から要請があっても出さない」と説明している。

http://news.livedoor.com/article/detail/13514664/

コレは日本ファーストの会なみだ目!(爆wwwwwwwwwww






横網町公園(よこあみちょうこうえん)は、東京都墨田区横網にある東京都立の公園である。東京都慰霊堂や復興記念館があるところとして知られている。
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日関東大震災がおきた。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで3万8000人が犠牲になったという。震災後、その3万8000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。やがて東京の復興が進む中、建築家・伊東忠太の設計の元、当公園に関東大震災による遭難死者約58000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ、1930年に完成。数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。また横網町公園自体も1930年9月1日に開園した。翌1931年には当公園内に関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。しかし、1945年、東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。特に3月10日東京大空襲では多くの犠牲者が出た。当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。その後第二次世界大戦で身元不明の遺骨などを当公園にある納骨堂を拡張し「震災記念堂」に合祀されることになった。そして1951年に「東京都慰霊堂」と改称され現在にいたっている。他には関東大震災の際に、朝鮮系の住民が震災に乗じて略奪や襲撃を起こしているという情報が流れたため、一部の朝鮮人(朝鮮人と間違えられた日本人も)が混乱下の避難民により殺害され、それを追悼する石碑や、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑などがあり、横網町公園は関東大震災と第二次世界大戦のメモリアルパークとしての要素が強い公園となっている。



被服廠
ひふくしょう
旧日本陸軍部隊に支給する被服品の調達、分配、製造、貯蔵を担当した工場と、これを統括した機関の総称。1890年(明治23)3月に制定公布された陸軍被服条例により東京に本廠が設置された。前身は、陸海軍二省が設置された際の陸軍省会計局の貯蔵係で、これに被服諸品の保管出納を担当させた。貯蔵係はのちに被服課と改称され、さらに陸軍省会計局長に直属して独立の官衙(かんが)となった。1902年(明治35)から陸軍大臣に直属することになった。







パンチョッパリが生粋の本国キムチに嫌われてるホントの理由は同胞を裏切って軍部のパシリの高麗棒子となりシナ人のみならず同胞をいじめてその娘たちをかどわかして従軍慰安婦として売り飛ばしたりしてたからなんですよ。(爆wwwwwwwwww





、、、(爆wwwwwwwww

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>パンチョッパリが生粋の本国キムチに嫌われてるホントの理由は同胞を裏切って軍部のパシリの高麗棒子となりシナ人のみならず同胞をいじめてその娘たちをかどわかして従軍慰安婦として売り飛ばしたりしてたからなんですよ。


今日も小池東京都知事が理由説明させられたようですので
大事なことですしっ、
何度もコピペが必要かと(拡散尚可)
思いますっ!

匿名 さんのコメント...

実に朝日らしいw



1: 動物園φ ★@無断転載は禁止 2017/08/26(土) 19:14:42.88 ID:CAP_USER

連載:天声人語
(天声人語)関東大震災の教訓
関東大震災の混乱のさなか、ある銀行員が見聞きしたことである。広場で群衆が棒切れを振りかざしている。近づいてみると大勢の人たちが1人の男を殴っている。殺せ、と言いながら

▼「朝鮮人だ」「巡査に渡さずに殴り殺してしまえ」との声が、聞こえてくる。「此奴(こやつ)が爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思ふと、私もつい怒気が溢(あふ)れて来た」(染川藍泉〈らんせん〉著『震災日誌』)。朝鮮人が暴動を起こしたとの流言飛語が、飛び交っていた

▼人びとは武器を手に自警団を作って検問をした。「一五円五〇銭」と発音しにくい言葉を言わせ、日本人かどうか調べた例もあった。あまりに多くの朝鮮人が虐殺された

▼差別的な振る舞いや意識があったがゆえに、仕返しを恐れたか。官憲もデマを打ち消すどころか真に受け、火に油を注いだ。「当局として誠に面目なき次第」と警視庁幹部だった正力松太郎が後に述べている。不安心理が異常な行動をもたらす。忘れてはいけない教訓である

▼そう考えると、首をかしげざるをえない。朝鮮人犠牲者を悼む式典に、小池百合子東京都知事が追悼文を送らない方針だという。例年とは異なる判断である。都慰霊協会の追悼行事があるので、「個々の行事への対応はやめる」のが理由というが、見たくない過去に目をつぶることにつながらないか

▼今からでも遅くない。方針を改め、追悼文をしたためてほしい。大震災から94年となる9月1日。風化を許してはいけない歴史がある。

2017年8月26日05時00分
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13103189.html