2017年5月9日火曜日

東京医科歯科大事件


両手に刃物、歯科医狙う?=逮捕の男、東京医科歯科大事件-警視庁

東京医科歯科大歯学部付属病院(東京都文京区)で男性歯科医(41)が刃物で刺され重傷を負った事件で、殺人未遂容疑で逮捕された日本医科大医学部4年渡辺祐介容疑者(30)が両手に刃物を持ち、歯科医に向かって行ったことが9日、警視庁本富士署への取材で分かった。部屋には他にも医師や患者がいたといい、同署は渡辺容疑者がこの歯科医を狙っていたとみて、トラブルの有無などを調べている。
本富士署によると、渡辺容疑者は付属病院6階の処置室に入ると歯科医をめがけて進み、両手に持った刃物で襲った。署員が到着した際、床には刃渡り約15センチのペティナイフと約21センチの牛刀が落ちていた。(2017/05/09-18:38)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017050901003&g=soc



日本医科大学(にほんいかだいがく、英語: Nippon Medical School)は、東京都文京区千駄木1-1-5に本部を置く日本私立大学である。1926年に設置された。大学の略称は日本医大、日医大、日医。
1876年(明治9年)に長谷川泰により創設された済生学舎を前身とする開学130年を超える日本最古の私立医科大学である。1903年(明治36年)8月31日、済生学舎創立者長谷川泰による済生学舎廃校宣言直後に創立者磯部検蔵によって設立された「済生学舎同窓医学講習会」、「医学研究会」、日本医学校の設立や私立東京医学校との合併、専門学校令による旧制日本医学専門学校の時代を経て、1926年(大正15年)の大学令によって旧制日本医科大学となる。戦前に大学令によって旧制大学に昇格したのは私立医大では3校であり、慶應義塾大学医学部東京慈恵会医科大学と共に、私立医大御三家と称されることがある[1]
なお、東京女子医科大学は前身の済生学舎出身の吉岡弥生(1892年卒)によって創立され、東京医科大学日本医学専門学校から袂を分かった人々によって創立され、埼玉医科大学は卒業生の丸木清美により設立された経緯がある。 卒業生には、世界的な細菌学者である野口英世(1897年卒)や、野口英世を指導した北里柴三郎の一番弟子で日本細菌学会賞の一つにその功績を浅川賞として残している浅川範彦(1883年卒)、眼科学の内外の現教科書に小口病として掲載されている名古屋医科大学学長にもなった小口忠太(1891年卒)、東京帝国大学の医化学助教授を経て金沢医科大学学長となった須藤憲三(1893年卒)、癌の免疫療法薬の1つとして有名な丸山ワクチンを開発した丸山千里(1928年卒)、ベルリン大学医学部で東洋人として初めて教授資格を取得しドイツのウリーツェンで現在も敬愛されている肥沼信次(1934年卒)、ジョン・F・ケネディマリリン・モンロー検死した米国ロサンゼルス郡検死局長のトーマス野口(1951年卒)、日本医師会世界医師会の会長を務めた坪井栄孝(1952年卒)などを輩出している。


トーマス・ツネトミ・野口(Thomas Tsunetomi Noguchi) こと野口 恒富(のぐち つねとみ、1927年1月4日 - )は、アメリカ合衆国日本人医師マリリン・モンローなどの著名人の検死をおこなったことで知られている[1]
福岡県生まれ、神奈川県横須賀市育ち[1]。父の渉は耳鼻咽喉科の開業医[1]神奈川県立横須賀高等学校では、同級生にノーベル賞を受賞した小柴昌俊がいた。日本医科大学を卒業後、1952年に単身渡米し、ローマ・リンダ大学で臨床・解剖病理学を専攻、助教授となる。1961年からロサンゼルス郡検死局勤務。1967年よりロサンゼルス検死局局長となる。1962年のマリリン・モンローの3時間におよぶ死体解剖を機に、以後、多くの事件の捜査に従事して、法医学に新分野を開拓した。
手がけた検死にはシャロン・テートウィリアム・ホールデンナタリー・ウッドジョン・ベルーシなどの映画スターから政治家、ジョン・F・ケネディ大統領[1]ロバート・ケネディ上院議員[1]など多岐に渡る。特に、ロバート・ケネディの検死解剖においては、暗殺時、身に着けていた衣服を再び着せた上で、遺体を担ぎながら、暗殺の様子を再現するという綿密な調査を行った。
その緻密で明快な調査は、マスコミを通じて、広く世間一般の注目を集めることとなり、1976年には、彼をモデルにDr.刑事クインシーが放送され、法医学の世界がより多くの人々へ知られることとなった。
1981年10月、30年ぶりに帰国し『モーニングジャンボ奥さま8時半です』(TBS)に出演した[1]
1982年にウィリアム・ホールデンの検死を行った際に、プライバシーを侵したととがめられたのを機に、バッシングを受けることになり(かねてから彼の地位を快く思わない人種偏見に満ちた誹謗中傷も多かった)、ロサンゼルス検死局局長を辞職。以後は、南カリフォルニア大学医学部教授やUSCメディカルセンターの医師として、後進の育成とともに医療活動を行ったほか、カリフォルニア大学ロサンゼルス校UCLA)でも教授を務めた。
1999年には、長年の功績により瑞宝章を受け、同年引退した。


・・・てかそもそも何故わざわざ日本人なんぞにそんな地位をいったい誰がどういふ目的で与えたのかを考慮すると色々見えてくるわけですよ。(爆wwwwwwww











、、、(爆wwwwwwwwwww

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