2017年4月1日土曜日

県立大田原高校から森友学園まで芋づる式に

2017.3.31 09:40更新
【栃木スキー場雪崩】
県立大田原高校を家宅捜索 業務上過失致死の疑いで栃木県警


栃木県那須町のスキー場で登山講習会に参加した高校生ら8人が死亡した雪崩事故で、県警は31日、業務上過失致死の疑いで、講習会の責任者だった県高等学校体育連盟登山専門部の猪瀬修一委員長(50)が所属する栃木県立大田原高校に家宅捜索に入った。捜査員らは山岳部の部室や倉庫など関係先を捜索したとみられる。

この日午前9時過ぎ、多くの報道陣が集まる中、警察車両から降りた捜査員約20人が次々に校舎の中に入っていった。春休みのため校内に生徒の姿はなく、学校関係者が数人出入りする姿がみられた。

県警は30日に那須温泉ファミリースキー場とその周辺を現場検証しており、31日に雪崩は約160メートル以上下ったとみられることを明らかにした。幅や積雪の深さについては明らかにしなかった。今後、家宅捜索で押収した資料を分析し、講習会の行程や安全管理に問題がなかったか、雪崩の発生の予見可能性などについて調べる。

一方、松野博一文部科学相は31日の閣議後記者会見で、全国の高校や高専を対象に、冬季や春季の登山の実施状況を調べると明らかにした。
http://www.sankei.com/affairs/news/170331/afr1703310012-n1.html




栃木県立大田原高等学校(とちぎけんりつ おおたわらこうとうがっこう)は、栃木県大田原市紫塚三丁目にある県立高等学校。通称は「大高」(だいこう)[注釈 1]

不発弾発見

2008年7月、敷地内にある校舎北側の倉庫内から長さ約55cm直径約20cmの鉄塊が公仕によって発見された。形状から砲弾の可能性があると判断したため、10月6日、栃木県教育委員会に報告。栃木県警に届け出た後、不発弾であるということが判明したため自衛隊に撤去を要請。同日17時に部活動や補習を中断し全生徒を下校させた後、20時半、陸上自衛隊朝霞駐屯地東部方面後方支援隊不発弾処理隊によって撤去された。
撤去された不発弾は旧日本軍の21センチ砲弾の未使用弾とみられており、4割程度の火薬が残っていたものの信管がなかったため、強い火気を近づけるなどしない限り爆発の危険性はなかった。同校は第二次世界大戦中に旧日本軍陸軍駐屯地として利用していたという記録が残っているため、終戦後に何らかの理由で砲弾が残され、そのまま保管されたという可能性もある。しかし明確なことは依然として分かっていない。
1970年の新校舎改築時に、旧校舎解体のがらくたの山から見つかっており、しばらく校舎の軒下に放置されていた。信管部分は、鋼板のキャップが施され、明らかに展示用に改造されたもので、創立80年記念の紫塚祭には模型として展示されていた。その後も校舎の軒下に置かれる状態が続いた。

雪崩事故

2017年3月27日、栃木県那須町湯本の那須温泉ファミリースキー場で雪崩が発生し、ラッセル訓練をしていた同校の山岳部員の生徒7人と引率の教員1人が死亡した。

1909年(明治43年)9月6日 - 皇太子が来校し、授業と生徒作品等を見学。

著名な卒業生



大金 益次郎(おおがね ますじろう、1894年(明治27年)10月28日 - 1979年(昭和54年)3月11日、満84歳没)は、昭和期の日本官僚
栃木県出身。大田原中学二高を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。
大阪府保安課長・京都府地方課長などを経て、1927年(昭和2年)宮内省に移る。宮内大臣秘書官侍従・総務局長などを歴任した後、1945年(昭和20年)宮内次官。翌1946年(昭和21年)戦後初の侍従長に就任。昭和天皇の信任厚く、同年神奈川県を皮切りに始まった全国巡幸では、宮内大臣松平慶民・宮内次官加藤進とともに、企画・立案・実施の中心人物として活躍した。

1948年(昭和23年)に退任し、以後は日本銀行監事・済生会理事長を務めた。1955年(昭和30年)に回想記『巡幸余芳』(新小説社)を刊行している。















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スーパードライ 陸軍中野学校