2017年2月25日土曜日

中川翔子と南野陽子@松陰中高@神戸

2017年2月25日

中川翔子(31)が25日、自身のツイッターを更新。中川がMCを務めるNHK FMの「アニソン・アカデミー」(土曜後2・00)に南野陽子(49)がゲスト出演。亡くなった中川の父でタレントだった中川勝彦さんと31年前に共演した際の写真を南野が持参、「その心に感動しました」と喜んだ。

中川は本番前、「なななななんとゲストに伝説の南野陽子さまが降臨!!」とつぶやいていたが、加えて粋なサプライズがあり、本番終了後に改めて
「なんと 南野陽子さま31年前 テレビドラマ 時をかける少女 で、父 中川勝彦と共演したことを覚えていてその時の貴重なスナップ写真を探して持ってきてくださいました 
その心に感動しました、お優しい、、ありがとうございます」と胸を熱くしたようだ。

南野陽子版「時をかける少女」は1985年にフジテレビで放映された単発ドラマ。

https://twitter.com/shoko55mmts/status/835377373335830528
https://pbs.twimg.com/media/C5fbRJuVAAAB5LA.jpg
https://pbs.twimg.com/media/C5fbRJrUYAAGqOV.jpg
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/02/25/kiji/20170225s00041000236000c.html










→札幌バンド


江戸(現在の東京都)に商人土木請負人の平野弥十郎の四男として生まれる。15歳のころから“伊藤一隆”となのる。


平野家

土佐国(現在の高知県)、東京都
平野家の初代弥市は土佐国(現在の高知県)に生まれ、安永の頃(1772年〜1780年)・藤兵衛と共に江戸(現在の東京都)に出た。藤兵衛は駒込の問屋「高崎屋」に奉公し、後に同家支配人になった。弥市は両国米沢町で生魚渡世ののち、文政11年(1828年)、薩州(薩摩藩)屋敷の仕立物用達出入りとなる。土蔵付きの瀟洒な家に住み、高輪にも家付きの地所があるかなりの資産家だった。
  • 祖母・(初代平野弥市の養女)
  • 父・弥十郎(飯田利兵衛の次男、2代目平野弥市)
平野弥十郎幕末・維新日記』、日本財団図書館(電子図書館) 平成15年度 海事講演会 海・船セミナー2003 ?ペリー来航150周年記念?「黒船来航、その時日本は」 - 伊藤の実父・平野弥十郎についての記述がある。

『平野弥十郎日記 嘉永四辛亥年(一八五一)』によると「是年七月、我か妻とみの実母の生死存亡住所共知れざりしか、今度漸々尋当、十四年目にしてとみ事、実母に面会したり、此時実母は年四拾才にて、名ハ藤林ますなり、同人の伯父なる、牛込筑土五軒町に住む、宝蔵院流鎗術師範、伊能一雲斎方に居、聊もふ自由なく安全に在りたり…ますハ信州上田城主五万三千石松平伊賀守藩士にて、藤林小伝次の娘なり、母は前陳の筑土伊能一雲の姉なり、父の小伝次は江戸詰にて、神田筋違御門内上屋敷内に在て、其頃高名の馬術師範たり時、文化九申年(一八一二)七月八日にます出生す、夫より天保三年(一八三二)の頃にますへ婿を取る、是は秋月の城主五万石の黒田家留守居某の男、其名を聞洩したり、天保五午七月三日に、ます事女子を産、是れ、とみなり」という。

土佐で平野と言えば・・・








で、


松陰中高沿革
1892年 - 英国聖公会の伝道機関によって、神戸市北野町に「松蔭女学校」創立。
1915年 - 「松蔭高等女学校」設立
1929年 - 神戸市青谷に校地を選定し、定礎式にイギリス王子グロスター公爵臨場。12月新校舎落成。
1982年 - 学院創立90周年記念式典開催
1992年 - 学院創立100周年記念式典開催。
2002年 - 学院創立110周年記念式典開催。
2007年 - 現在のカリキュラムを見直し新カリキュラムを実施。
2015年 - 約50年ぶりに高校入試を開始する。



グロスター公爵ヘンリー王子(英語: Prince Henry, Duke of Gloucester洗礼名: ヘンリー・ウィリアム・フレデリック・アルバート; Henry William Frederick Albert1900年3月31日 - 1974年6月10日)は、イギリスの王族。グロスター公爵、アルスター伯爵、カローデン男爵。第11代オーストラリア総督(在任:1945年 - 1947年)。
当時ヨーク公だったジョージ王子(後のジョージ5世)と妃メアリーの三男として、ノーフォークのサンドリンガムで誕生した。兄にエドワード8世ジョージ6世、姉にハーウッド伯爵夫人メアリー、弟にケント公ジョージらがいる。
同年5月17日に、ウィンザー城のプライベートチャペルで、ウィンチェスター大主教であるランドル・デイヴィッドソンによって洗礼を施され、ヴィクトリア女王ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世ベアトリス王女ハノーファー王太子妃テューラノルウェー王妃モードギリシャ王子ゲオルギオスアスローン伯アレグザンダー・ケンブリッジロバーツ伯フレデリック・ロバーツらが代父母となった。
1913年からイートン校で学び、卒業後の1919年には他の兄弟とは対照的にサンドハースト王立陸軍士官学校に入学、陸軍軍人となり、1937年の退役まで第10軽騎兵連隊の将校を務めた。第二次世界大戦が始まると軍に復帰し、主席連絡将校を務めた。1955年には陸軍元帥、1958年には空軍元帥に任ぜられた。
1928年にグロスター公となり、1930年にはエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの戴冠式に出席するため、アディスアベバに赴いた。
1929年には日本を訪れ、5月5日に靖国神社に参拝したほか、明治神宮陸軍習志野演習場京都神戸などを訪問している。
1936年、長兄エドワード8世の予期せぬ退位で王位についた次兄ジョージ6世は、もし自分に不測の事態が起こり死ぬようなことがあり、まだ年端もいかないエリザベス王女が即位するような事態となったら、摂政として補佐してほしいとヘンリーに頼み、イギリスを離れないように要求していた。
1944年、オーストラリア労働党政権の首相ジョン・カーティンと懇意にしていたため、オーストラリア総督就任を依頼された。カーティン自身は総督職をオーストラリア人にさせるべきとの持論の持ち主だったが、第二次世界大戦中だったため王族が総督になる方が得策と考えた[1]オーストラリアのイギリス離れを封じるためと、オーストラリア守備の必要性からであった。元々、他の兄弟に比べて容姿にコンプレックスを抱えていたこともあって、内気で人前に出るのが苦手だった彼は、オーストラリア国民に好かれなかったが、公爵夫人アリスは好印象を与え、夫の負のイメージを和らげた。1945年にカーティンが亡くなり、戦争が終結すると、ヘンリーは1947年3月に任期を残して職を辞し、帰国した。
第二次世界大戦以降も、1949年に兄王の代理として南アフリカを訪問するなど、夫人とともに海外歴訪を含む公務をこなし続け、1954年にはグレイ法曹院の大蔵卿に任ぜられた。だが、晩年は脳卒中に倒れ、1972年の長兄ウィンザー公の葬儀にも出席できず、同年8月28日には長男ウィリアムが飛行機事故で急逝するなど、不幸が相次いだ。
1974年6月10日に74歳で死去。ジョージ5世の子供たちの中では最も後年まで生きた。グロスター公位は、次男のリチャード王子が継ぐこととなった。

雑記

1935年発行の100カナダドル紙幣に肖像が使用されている。


キムチと日本人の違いを見抜けなかった英国王室内ドイツ派閥にも法則が発動したんですよ、きっと。(爆wwwww



1 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

たまに神戸に帰ってくる南野さん
知り合いの楽器屋さんでギター買ったらしくてw