2017年2月19日日曜日

満州派朝鮮派閥とバリバリのキムチ派たる今上天皇の最後の牙城、松代大本営にロックオン!

金正男氏殺害、強まる「ドッキリ偽装」 「日本のテレビ番組」利用されるワケ
2017/2/19 18:37

日本のドッキリ番組だと言われて――。金正男氏殺害の「実行犯」とされるインドネシア人女性が、そんな供述をしていると国内外のメディアが報じている。

インドネシアでは日本のテレビ番組なども放送されており、「オリジナリティがある」など人気がある。こうした背景が、今回の事件にも影響している可能性がある。
http://www.j-cast.com/2017/02/19290983.html?p=all






ドッキリとはバラエティ番組の表現手法のひとつ。番組進行を知らない、または虚偽の進行だけ知らされている出演者をだましたりイタズラを仕掛けたりして、出演者の反応を楽しむという手法。
語源は「ドッキリする」という心臓の鼓動が高まるほど驚く様子を表す言葉である(後述の元祖どっきりカメラの影響)。最後にネタばらしを行うが、ネタばらしは仕掛け人と呼ばれる進行役が番組名や「ドッキリ」と書かれたプラカードを持って登場する方式が多
1969年日本テレビで放送された番組「なんでもやりまショー」の1コーナー「どっきりカメラ」が日本におけるその元祖といわれる。その後、同コーナーは「元祖どっきりカメラ」として独立した番組となり人気を博す。同番組終了後は単発番組あるいはレギュラー番組内の単発企画として他局の番組でも頻繁に放送されるようになり、さまざまなドッキリの手法が考案された。ドッキリの普及によって近年は芸能人(特にお笑いタレント)側がドッキリに対して耐性があり状況を察して警戒してしまう傾向にあるため、ドッキリは逆ドッキリ(後述)や数週間や数か月と長期に渡って仕掛ける方式が増加している。





元祖どっきりカメラ』(がんそどっきりカメラ)は、1970年代から1990年代まで日本テレビほかで放送されたバラエティ番組シリーズの1タイトル。
前身は、1969年から同局で放送された『なんでもやりまショー』(司会は宍戸錠高松しげお)内の1コーナー「どっきりカメラ」である。1970年10月3日に金原二郎(当時日本テレビアナウンサー)を総合司会に迎え、タイトルはコーナーそのままに『どっきりカメラ』と題して、久光製薬(「サロンパス」名義)一社提供でレギュラー番組化したが、半年後の1971年3月27日に終了。
その後の1971年4月3日、番組は牧伸二を司会に迎え、『いたずら大作戦』と題してリニューアルしたが、半年後の同年9月25日に終了。それから2年後の1973年10月6日、今度は高橋圭三を司会に迎え、『ビックリ決定版!!』と題して再登場したが(この時の「どっきりカメラ」は「びっくりカメラ」と改名)、半年後の1974年3月30日に終了した。

その後、1974年から1989年までは『木曜スペシャル』内で、3か月に1回周期の単発番組として放送された。司会は当初は金原が務めていたが、のちに宍戸錠石川牧子(当時日本テレビアナウンサー)に交替した。その後、プラカード役を務めていた野呂圭介の降板を機に番組は一旦終了。のちに司会に高橋英樹山田邦子を、プラカード役に笑福亭笑瓶を起用した新作が放送されたが、結局定期放送には至らなかった。以来このシリーズは放送されていない。




中冨 正義(なかとみ まさよし、1905年10月23日 - 2011年11月23日)は日本実業家久光製薬の社長、会長を務めた。
佐賀県鳥栖市出身。明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)卒業。
1929年、家業である久光兄弟合名会社に入社。1951年、株式会社化と同時に父の跡を継ぎ社長に就任。
1965年に社名を現在の「久光製薬」に改称。社長として消炎鎮痛剤サロンパスを開発、販売を開始し、同社の看板商品に押し上げた。1981年から1997年まで会長を務めた。
2011年11月23日、心不全のため死去[1][2]。満106歳没。
社業以外でも、ホノルルマラソンを77歳から91歳まで連続15回完走するなど、その健脚で知られた。

また、1988年には私財を投じて中冨健康科学振興財団を設立し、健康増進に関する科学研究に対して助成を行った[3]


明治薬学専門学校(めいじやくがくせんもんがっこう)は1923年大正12年)に設立された日本の旧制薬学専門学校明治薬科大学の旧制前身校の一つ。本項では「東京薬学専門学校」など前身諸校を含め記述する。
1902年明治35年)に設立された「東京薬学専門学校」を源流とする。「神田薬学校」、「明治薬学校」を経て「明治薬学専門学校」が設立された。その後「東京女子薬学専門学校」が併設され、両校は新制大学の「明治薬科大学」となった。

沿革

東京薬学専門学校時代






  • 1902年 恩田重信によって東京薬学専門学校設立(神田区三崎町) 






  • 恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日1861年7月23日) - 昭和22年(1947年7月30日)は、日本の薬学者明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)の創立者。
    信濃国松代城下に松代藩士恩田十郎時篤の子として生まれる。1882年東京帝国大学医学部製薬学科を卒業。内務省に入省。千葉医学校附属病院薬局長を経て陸軍薬剤官から二等薬剤官となった。1902年(明治35年)東京市神田区に東京薬学専門学校(のち明治薬学専門学校に移行)を創立し初代校長となる。薬剤師の地位向上や市井における保健衛生の普及向上に努めた。1944年(昭和19年)郷里の生家に疎開。1947年(昭和22年)没。享年87。


    松代藩(まつしろはん)は、江戸時代信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市松代城居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)越前松平家真田家が就封した。なお本項では、城地は異なるが同じ領地を支配した川中島藩についても記載する。








    松代大本営跡(まつしろだいほんえいあと)は、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。
    このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開されている(詳細は後述)。

    太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。1944年7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
    初期の計画では、象山地下壕に政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤は脆く、舞鶴山地下壕に皇居と大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
    そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として予定されていた建物が造られ現在も残っている。

    関連施設は善光寺平一帯に造られたため、「一大遷都」計画であった。上高井郡須坂町(須坂市)鎌田山には送信施設、埴科郡清野村(現長野市)妻女山に受信施設、長野市茂菅の善光寺温泉および善白鉄道トンネルに皇族住居などが計画された。また長野市松岡にあった長野飛行場が陸軍により拡張工事が行われている。

    松代大本営建設に至るまでの皇居の防空対策


    御文庫
    皇居には1935年頃、鋼鉄扉の防空室(地下金庫)が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。のちに御文庫と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、昭和天皇香淳皇后は空襲警報発令のたびに宝剣神璽(三種の神器のうち剣と璽)とともに皇居第2期庁舎の防空室に避難していた。
    さらに1941年4月12日、御文庫が極秘に着工され、1942年12月31日に完成した。施工を請負ったのは大林組で建築費は約200万円であった。建坪1,320m2。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、トイレなどがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mを重ねた計3mの厚さであった。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。

    戦況が悪化したため、1945年6月頃にさらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330m2、56m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた。この地下壕はのちの終戦時の2度の御前会議の場所となった。


    松代が選ばれた理由


    皆神山
    大本営移動計画は後に終戦時の宮城事件に関わることになる陸軍省井田正孝少佐が1944年1月に発案し、富永恭次次官に計画書を提出、大本営幹部会の承認を経た後、鉄道省の現地調査が行われ、全国に地下施設の構築計画案が決まり、大本営の建設場所に松代が選定された。計画案の選定理由は以下のとおりである[1]
    1. 本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。
    2. 固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
    3. 山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。
    4. 長野県は労働力が豊か。
    5. 長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
    6. 信州は神州に通じ、品格もある。
    この案では松代に大本営、東京浅川に東部軍収容施設、愛知県小牧に中部軍収容施設、大阪府高槻に中部軍収容施設、福岡県山家に西部軍収容施設を建設するものであった。その後、この案は東條英機首相の日本政府全体の移動の意向により変更され、大規模化した。

    「松代倉庫」工事として極秘に進められた工事であったものの、工事に従事した地元の日本人労働者の証言では、当時は、地元はもちろん、周辺地域の村では「大本営と天皇陛下が東京から移ってくる」という噂で広がっていたという。噂になった原因は、大規模な工事であり、長野電鉄松代駅に列車で輸送されてくる、大量の物資が住民の目に留まったからだとされる。


    建設


    土地の買収は役場を通じて軍が行った。当時は養蚕が重要産業であったので桑畑は程度により買収金額が三段階に分かれていた。買い上げた土地のうち戦後に不要になったものは買い上げ価格の半値程度で払い下げられた(疎開補償費を元住民が半額返金した)。当該地区一帯500戸足らずのうち130戸が立ち退き対象となり、疎開は東部軍の指示により1945年4月から行われた。田畑の耕作は許可されていたため多くは付近の親戚や知人宅を頼った。大規模な移動が起こっていないように偽装するため、家、庭木、庭石などはそのまま、畳の持ち出しは3枚までに制限されていた。終戦後は漸次9月9日までに自宅に戻り、修理されていた家もあった[2]
    1944年11月11日11時11分、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。「11」が並ぶ時間が選ばれたのは、漢字の十一を縦書きにすると「士」に通じることが理由とされる。ダイナマイトで発破して、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。建設作業にあたっては徴用された日本人労働者および日本国内および朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者が中心となった。工事は西松組鹿島組が請け負った。満州国からの第4639部隊や、賢所工事には鉄道省静岡隧道学校の若者も当たり、付近の住民は勤労奉仕隊としてズリなどの運搬に、また当時の旧制屋代中学旧制松代商業らの生徒も陸軍工兵隊の指揮の下、運搬などに学徒動員され、国民学校初等科の生徒も運搬や山から採ってきた枝でズリを隠す作業等を行った[2]。勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が当初8時間三交代、のち12時間二交替で工事に当たった。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。延べ人数では西松組・鹿島組・県土木部・工事関係12万人、勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人、総工費は6000万円[3]。当時の金額で2億円の工事費が投入されたとも伝わっている[要出典]。しかし、1945年8月15日ポツダム宣言受諾発表により、進捗度75%の段階で工事は中止された。
    昭和天皇の「神器を奉じて帝都を動かず」との考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王今上天皇)、義宮常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったといわれる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者(小倉庫次侍従加藤進総務局長)が訪れ、内大臣木戸幸一の日記(木戸日記)の1945年7月31日付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。
    当時飯場で賄いをしていた人からの証言では地下壕掘削のために働いていた朝鮮人労働者には1日に白米7合、壕外での資材運搬で働く朝鮮人労働者には白米3合が配給、他にそれぞれ麦やトウモロコシなどが配られるという破格の待遇[4]であった。
    朝鮮人労務者は体が丈夫なせいかあまり風邪を引かず、規則正しく礼儀正しかったといわれる[2]。家族ぐるみで働きに来ている者もおり、子弟は日本人と一緒に学校に通った[5]。松代住民と朝鮮人との仲は比較的良く、朝鮮人が農業を手伝ったり、西条地区の強制立ち退きも手伝った。また朝鮮人名で預金通帳をつくることができなかったため、松代住民が代わりに名前を貸したという。また日本人と朝鮮人の恋愛結婚もあった。朝鮮人労務者の食事事情は(密殺した)牛肉を食べるなど、国内での炭鉱や土木工事などに徴用された朝鮮人労務者と比較して待遇面では悪くはなかったようで、日本人よりも良好だった。終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり250円の帰国支度金が支払われ1945年の秋にはほとんど富山から帰国させることができた。
    なお、松代大本営は主に陸軍において計画・推進されたものであるが、さらに戦局が悪化した終戦直前になって、連合軍が南九州に上陸するとの想定のもと[注 1]、より作戦が取りやすいという理由などから、奈良県天理市の一本松山付近に大本営と御座所を移すという計画が主に海軍により立てられ、実際に工事が進められていた。

    賢所の建設

    皇居内の賢所に置かれていた三種の神器は天皇の動座とともに松代に移される計画であった。当初、三種の神器を安置する場所は、舞鶴山地下壕の地下宮殿の奥に計画されていたが、「陛下に万が一のことがあっても、三種の神器は不可侵である。同じ場所には許されない。陛下の常の御座所と伊勢の皇太神宮を結ぶ線上に南面して造営し、しかもその掘削には純粋の日本人の手によること」と宮内省の強い指導があった。しかし工事を担当していた長野施設隊本部では賢所の構造を知らなかったため、協議して東大工学部助教授であった関野克一等兵が担当することになった。本部では武藤清東大教授、梅村魁東大助教授を松代に招き意見を聞いた。
    武藤教授の指示で坑道を稲妻状に分岐させ、爆風を減殺することができる方法をとることにした。坑道が直線的な構造では坑道を長くしても爆風による被害を免れないと考えたからである。場所は舞鶴山の西、清水寺、西楽寺の真裏の弘法山の山腹に決まった。掘削要員は「純粋の日本人」ということで熱海の鉄道教習所の少年隊に決まった。7月初め現地で起工式が行われ、9月末に完成予定であったが、敗戦により中止となった。

    動座用車両

    天皇がもし松代へ動座(移動)する事態となったとき、鉄道では空襲等に対し危険であり、車では道路状態が悪く(当時は舗装道路が完備されていなかった)ため、安全性が高く機動力のある交通手段を考えねばならなかった。1944年の段階では天皇・皇后の動座のための装甲車が2台準備されていたが、居住性、走行性能共に高いものではなく、1945年には新たなものが新造されることになった。
    新造された車両は天皇を守る近衛師団の騎兵連隊に送られ、赤芝師団長により「マルゴ車」と名付けられた。皇太后(貞明皇后)と日光田母沢御用邸に疎開していた皇太子(今上天皇)用も含めて4台、予備2台が制作された。
    マルゴ車の他「特別運搬装甲車」とも呼ばれたこの車両は、従来の装甲車に比べ2まわりほど大きく、二重鋼板の装甲により小口径の速射砲弾程度なら跳ね返す強度を持ち、前輪はタイヤ、後輪は戦車と同じ無限軌道を持つ半装軌車構造であった。内部は前室に侍従武官の部屋、皇族の居室となる奥の部屋には天井にシャンデリア、床に絨毯、ソファやベッド用マットが置かれていた。固定武装は無いが、必要に応じて対空対地用の重機関銃が据え付けられるようになっており、スピードは時速40キロ程度、車体には黄色と緑の迷彩が施されていた。
    1945年に入り東京への空襲が激しくなり、従来皇族の警護に当たっていた近衛師団騎兵連隊の軍馬を疎開させるようになったため、マルゴ車の護衛は戦車隊で行わなければならず、2両のマルゴ車の前後を13両の戦車で守り、本土決戦時には空から落下傘部隊に奇襲されて包囲されることを考え、攻撃を排して突破脱出する作戦も考えられていたという。移送訓練は連日秘密裏に行われ、機密を守るために主に夜間に行われていた。
    マルゴ車は空襲から守るため保管場所を戸山ヶ原・世田谷区砧の地下壕・小石川区関口台町の横穴・芝の愛宕山トンネルと二転三転し、8月15日には近衛師団将校が宮内省前に並べたが、その後行方不明となった。

    海軍壕

    本土決戦には反対であった海軍も、1945年6月に大本営海軍部用の地下壕を建設することに決定した。当時、横須賀で飛行機の格納用の地下壕を建設中だった第300設営隊は6月海軍施設本部の命令により、長野に大本営海軍部用の地下壕を建設するため、設営隊の半分の500人を派遣した。設営隊長は山本将雄技術大尉であった。
    地下壕掘削の場所は、上水内郡安茂里小市(現長野市)で、長野市の中心部から西へ約3.5キロメートル、松代大本営からは約16キロメートルである。地下壕はおよそ1000人を収容できる規模のものが計画された。隊の将兵は近くの民家や寺院に寝泊まりして掘削に当たったが、その期間は短く、約100メートル掘って敗戦となった。現在、入り口は会社所有となり入れない。

    慰安所

    壕周辺に慰安所は3か所あり4〜5人の朝鮮人慰安婦がこれらの施設を回っていた。ただしこれは軍人用のものではなく、朝鮮人労務者用の中で監督する立場の上級幹部用のもので、日本人の出入りはほとんど無かった。ただし、トラックで来た兵隊や支那服のようなものを着た女性が町の方から大勢来たのを覗きに行って怒られた子供の逸話もある[5]
    そのうちの一つは本六工社の女工のための娯楽室だったものが、1938年倒産後物置になり、1944年9月からは労務者宿舎建設工事の合宿所となっていた。その後、周辺婦女子とのトラブル防止目的の慰安所として貸し出されたもので、11月に朝鮮人一家5名と日本語の通じない接客婦3名(朝鮮の高官が朝鮮人労務者のために本国から連れてきたとされる)、雑役1名が岩手県釜石市より移住し慰安所、博打場として営業を開始した[5]。売春行為が行われていたかははっきりしない。終戦後9月、一家と使用者は帰国し、その後の建物には先の朝鮮人一家の弟夫婦が半年ほど住み着き、博打場のように使われた。弟夫婦立ち退き後、建物は医院として貸し出され、閉院後は1991年に解体されるまで再び倉庫となっていた。

    跡地利用


    • 1946年(昭和21年) - 埴科郡仏教会が旧大蔵省より舞鶴山のIV号舎(仮御座所)を払い下げを受け、児童養護施設恵愛学園とする。
    • 1947年(昭和22年) - この松代大本営を戦災孤児のための施設に転用しようという動きがあったが実現しなかった。
    • 1947年(昭和22年) - 舞鶴山のコンクリート庁舎に中央気象台の松代分室(現・気象庁松代地震観測所)が設けられ、舞鶴山地下壕には、各種地震計が設置された。現在では日本最大規模の地震観測所となっている。
    • 1967年(昭和42年) - 松代群発地震発生で舞鶴山のコンクリート庁舎III号舎(宮内省庁舎)に気象庁の松代地震センターが設置される。
    • 1990年(平成2年) - 長野市により象山地下壕の一部(約500m)が一般に内部公開される。なお象山地下壕1番壕には信州大学宇宙線観測施設が設けられている。

    一般公開


    象山地下壕
    放置されていた壕のひとつである象山地下壕は、地元の私立篠ノ井旭高校(現長野俊英高校)の教師土屋光男の指導を受けた沖縄戦研究班(現、郷土研究班)の高校生が市によびかけ、1990年から長野市観光課が一部公開を始めた。





    昭和天皇の「神器を奉じて帝都を動かず」との考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王今上天皇)、義宮常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かった



    昭和天皇の「神器を奉じて帝都を動かず」との考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王今上天皇)、義宮常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かった

    昭和天皇の「神器を奉じて帝都を動かず」との考えによって、内廷皇族では皇太子明仁親王今上天皇)、義宮常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かった



    要するに今上は昭和天皇とは異なりバリバリのキムチ派天皇なんですよ。(爆wwww


    そして大日本帝国軍が関与した在日朝鮮人・元朝鮮人労働者相手の従軍慰安婦施設は実在したんですよ。(爆wwwwwwww





    アクアカラーですなあ・・・(爆wwwwwwww




    、、、(爆wwwwwwwwwww

    8 件のコメント:

    匿名 さんのコメント...

    ジャニーズ起用しまくりの北テレこと日テレ…パヨク右派はテロ朝T豚S犬HKばかり叩いてあんまり日テレを叩かないんだよなぁ何でだろうなぁ(棒

    ジャニーズの闇=大谷貴義の闇=皇室の闇=北朝鮮の闇=イスラム国の闇=大日本帝国軍部人脈の闇=小沢一郎の闇
    http://tokumei10.blogspot.jp/2016/01/blog-post_69.html

    匿名 さんのコメント...

    エヴァ 松代
    なんかもそういうことなんですね。

    匿名 さんのコメント...

    みこしのかつぎて

    匿名 さんのコメント...

    竹原笹塚古墳 百済

    匿名 さんのコメント...

    テロ等準備罪、日テレにも都合が悪いのでしょうか?w



    退位、57%が恒久制度化=「共謀罪」に賛成6割超-時事世論調査:時事ドットコム
    http://www.jiji.com/jc/article?k=2017021700907&g=soc

     時事通信の2月の世論調査で、天皇陛下の退位を可能とする法整備の在り方について尋ねたところ、「将来の天皇全てが退位できるような恒久的な制度にする」と答えた人が57.9%を占めた。「特例法で今の陛下だけが退位できるようにする」は32.8%にとどまった。政府は今の陛下一代限りの退位を認める特例法で対応する方針で、国民の意識との違いが浮き彫りとなった。

     政府の有識者会議が1月下旬に公表した論点整理は、特例法で対処するとの政府方針を事実上追認。自民、公明両党も特例法による退位を打ち出している。これに対し、民進、共産両党など野党の多くは皇室典範改正による恒久制度とすべきだと主張しており、一本化のめどは立っていない。
     「共謀罪」の構成要件を改め「テロ等準備罪」を創設する組織犯罪処罰法改正案を今国会に提出する政府方針に対しては、賛成66.8%、反対は15.6%だった。
     調査は全国の18歳以上の男女2000人を対象に個別面接方式で実施。有効回収率は61.7%。(2017/02/17-15:05)



    日本テレビ世論調査
    http://www.ntv.co.jp/yoron/201702/soku-index.html

    平成29年2月19日
    2 0 1 7 年 2 月 定 例 世 論 調 査

    - 速 報 -
    ※ グラフ等の詳細は、2月22日以降に掲載致します。

    調査日: 2017年2月17(金) ~2月19日(日)
    世帯数:1620 回答数:703 回答率:43.40%
    少数点第2位以下を四捨五入


    [ 問9] 政府は、組織的犯罪集団が犯罪を実行しなくても準備段階で罪に問える「共謀罪」の趣旨を含んだ、「テロ等準備罪」を設ける法案を今の国会に提出する方針です。犯罪の計画段階で、処罰の対象となることに対して、人権侵害や、捜査機関による乱用の恐れがあるとの指摘もあります。あなたは、この法案に賛成ですか、反対ですか?
    (1) 賛成 33.9 %
    (2) 反対 37.0 %
    (3) わからない、答えない 29.2 %

    匿名 さんのコメント...

    松代 佐久間象山 高望王 桓武平氏 

    匿名 さんのコメント...

    ■テロ等準備罪の世論調査

    時事通信
    ・賛成 66.8%←
    ・反対 15.6%

    日本テレビ
    ・賛成 33.9%
    ・反対 37.0%←誘導設問の結果w

    同時期の世論調査なのに、全く違う結果が出てるので、世論調査の設問を見たら、日テレが「ネガティブな誘導設問」しててワロタwww
    https://twitter.com/_500yen/status/833322432341487616

    匿名 さんのコメント...

    ジャニーズが亀梨和也を日テレ丸抱えタレントとして猛推薦中 - まいじつ
    http://myjitsu.jp/archives/17454

    2017.02.21 17:30

    活動休止中の『KAT-TUN』のメンバーの亀梨和也を、ジャニーズ事務所が独立から必死に慰留中だという。というのも亀梨は根っからの野球少年であり、野球好きというより評論家に近い中居正広に心酔。中居がジャニーズ事務所を出るとなれば、後輩では亀梨が真っ先に付いていくといわれる。

    「中居は野球のスキルはそれほどでもないが、根っからの巨人好きで理論家。対して亀梨はリトルシニア出身で本当に甲子園を狙えたかもしれない逸材。だから、お互い野球好きのフィールドは違っても非常に合う。亀梨は『事務所で一番尊敬するのは中居さん』とはっきり言っています」(ジャニーズライター)

    この亀梨、KAT-TUNの休止後は完全にソロとして活躍。現在、彼は『Going! Sports&News』(日本テレビ)などスポーツ関連コーナーのあるレギュラーが4本。4月期から主演のドラマ『ボク、運命の人です。』も含め、すべて日本テレビという特異な布陣を敷いてくる。

    「一部には、かつて木村拓哉がフジテレビのお抱えになったように、亀梨は日本テレビのそれになるのではないか、とみられます。民放4位のフジよりもトップの日テレの方がいいに決まっている。同局も亀梨を留めたいハラはあるでしょう」(同・ライター)

    しかも亀梨に対しては、将来“ポスト木村”に育てたいという事務所の思惑もあるという。

    「もう木村は挽回ギリギリのところまで落ちた。そこにいくと亀梨は“剛速球プロジェクト”で120km/hを投げる企画に挑戦して、見ていて楽しい。さわやかスポーツマンという感じなんです。今後、事務所が日本テレビにばかり出すのも分かる。いま一番勢いがある局ですから、木村時代のフジのようにと考えている」(女性誌記者)

    ほかのKAT-TUNのメンバーに比べれば、亀梨の状況はソロになっても極めて良好だ。

    「ジャニーズ事務所は木村の悪人のイメージをバラエティーなどで薄めるために、スポーツ少年の亀梨と組ませ、さわやかさを挽回したいわけです。亀梨は木村と組みたくない。中居派でいたい。非常に苦渋の決断が今後待っているのです」(同・記者)

    亀梨の答えはいかに。