台湾セメントの辜董事長が死去 ホテルの階段で転倒
2017/1/23 22:41
■台湾水泥(台湾セメント、台湾のセメント最大手) 23日、辜成允董事長が死去し、取締役の張安平氏が同日付で新董事長に就任したと発表した。辜氏はホテルでの転倒がもとで死亡した。62歳だった。
辜氏は、台湾の代表的な企業家であり対中交流の窓口団体である海峡交流基金会の理事長も務めた故・辜振甫氏の次男。2003年から董事長を務めていた。現地メディアによると21日夜に台北市内のホテルで開かれた結婚式に出席。階段で転倒して3階から2階まで転げ落ちた。頭部を強打して脳出血を起こし、23日に死去したという。
(台北=伊原健作)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDX23H0Q_T20C17A1FFE000/
辜振甫の息子ですな。(爆wwwwwww
阿片屋の末裔・・・(爆wwwwww
辜 振甫(こ・しんぽ)は、中華民国(台湾)の財界人、台湾の対中交渉窓口機関・海峡交流基金会の初代理事長。祖籍は福建省恵安県、字は公亮、台湾の五大家族といわれる名家出身。
1941年(昭和16年)、台北帝国大学法学部卒業後、東京帝国大学でビジネス管理などを学ぶ。終戦後は台湾に戻り、国民政府の土地改革などに協力、土地の供出の見返りとして得た台湾セメントなどの事業で、父・辜顕栄から引き継いだ事業を発展させた。台湾証券取引所初代理事長なども務め、台湾財界の巨頭となった。
1982年(民国71年)、蒋経国政権で中国国民党中央常務委員となり、1990年(民国79年)には海峡交流基金会の初代理事長に就任、対中交渉役のトップとなった。1993年(民国82年)、海峡両岸関係協会の汪道涵会長とシンガポールで初のトップ会談を実現。1998年(民国88年)にも上海で汪会長と再び会談し、北京で江沢民中国共産党総書記とも対面した。李登輝政権で長く総統府資政(顧問)を務め、総統特使として3回、APECに参加するなど、1990年代、台湾の重要な政策決定の中核に常にいた人物である。
辜振甫は京劇の大ファンで、自ら演じることもあった。とくに好んだのは諸葛亮の役で「借東風」や「空城計」などの諸葛亮をしばしば演じた。1998年(民国87年)には日本で公演している。
日台国交断絶後の両国窓口機関設置に関与するなど(亜東関係協会常務監事)、日本の政財界とのパイプも極めて太く、晩年には早稲田大学から名誉博士号が授与され、同大学内庭園に辜氏の名前が付けられたという。
2005年(民国94年)2月2日、台湾政府は国立国父紀念館で追悼式を挙行した。陳水扁総統が「台湾の社会が最も尊敬した人物」と最大級の賛辞を送り、故人の国家への貢献を称える「褒揚令」が読み上げられた。中国側からは、汪・海協会会長の個人代理として、同協会の孫亜夫副会長(兼国務院台湾事務弁公室副主任)と李亜飛秘書長が弔問のため訪台した。日本側からも日華議員懇談会会長の平沼赳夫元経済産業大臣、財団法人交流協会会長、日本経団連事務総長ら、政・財・学の各界要人50人余が参列した。
親族
日本語WIKIには無い情報・・・
Born in northern Taiwan into a wealthy family headed by his father Koo Hsien-jung,[2] Koo attended Taihoku Imperial University (now National Taiwan University). He inherited a substantial fortune and a business upon his father's death in 1937. Koo graduated in 1940 and pursued a graduate degree in Japan.
Koo was jailed in 1946 for 19 months on treason charges for helping Japanese. After his release, he took refuge in Hong Kong and only returned to Taiwan in 1949 to marry his wife, Cecilia Koo. He focused on running Koos Group as well as on his political career that led to his elevation to the central committee of Kuomintang.[3][4]
で、
Koo Hsien-jung (Chinese: 辜顯榮; pinyin: Gū Xiǎnróng; Wade–Giles: Ku1 Hsien3-jung2; Pe̍h-ōe-jī: Ko͘ Hián-êng; Romaji: Kō Ken’ei; February 2, 1866 – December 9, 1937) was a Taiwanese businessman and politician who enjoyed strong links to the Japanese colonial administration of Taiwan. He founded the Koos Group of companies, the largest business group in Taiwan.
Koo was a businessman at the time of the Treaty of Shimonoseki in which Qing Dynasty China ceded Taiwan to Japan. When the Japanese forces arrived in Taiwan in 1895, Koo initiated contact with the Japanese forces in Keelung and urged them to enter Taipei to restore order.
Koo's close links to the Japanese allowed him both to pursue a successful political career (he became the first Taiwanese to be appointed by the emperor to the House of Peers of Japan, in 1934) and to build a collection of businesses that formed the nucleus of today's Koos Group of companies.
Koo had four concubines, eight sons and four daughters. His fifth son, Koo Chen-fu, inherited control of his father's business and served as the negotiator for Taiwan during the talks with China in 1993 and 1998. His eighth son, Koo Kwang-ming was and is a leader of the Taiwan Independence movement. His grandson is Richard Koo, a Japanese economist specializing in balance sheet recessions.
辜 顕栄(こ けんえい、1866年 - 1937年。中国語: 辜 顯榮、ピン音Gū Xǐan róng)は、日本統治時代の台湾における実業家、政治家。字は耀星。台湾彰化県鹿港出身。日本の台湾統治に積極的に与した台湾島人有力者、いわゆる「御用紳士」として評されることが多い。贈従五位。
出自
辜顕栄が歴史上に登場する1895年以前の足取りについては、文献ごとに大きく記述、評価が異なる。戦前に刊行された辜顕栄翁伝記編纂会『辜顕栄翁伝』(原書は1939年刊行)では、辜は8歳から20歳までの間、清朝の進士であった黄玉書に学び、その後独立商となり上海や福建、香港を往来し、日清戦争時には清朝の南洋大臣張之洞と石炭売買の契約をした[1]とされる。一方で静思『辜顕栄伝奇』(前衛出版社、1999年)では辜顕栄の前半生について、『辜顕栄翁伝』とは全く違った書き方をされている[2]。
日本軍への協力
1895年、日清戦争の清国敗戦により台湾が日本に割譲されることが伝わると台湾の世論は沸騰し、日本への割譲を防ぐべく「台湾民主国」が設立された。しかし台湾民主国は国家機構も軍事力も未整備であり、6月に基隆に日本軍が上陸すると台湾側はこれを阻止できずに敗退。台北にも敗戦の報が伝わり、更には基隆の敗残兵が台北に流入して狼藉を働くなど、台北は混乱を極めた。この危機に際し、台北の有力商人層は日本軍を頼って秩序を回復することを商議した。日本軍への使者として辜顕栄が名乗りを上げた[3]ことが、彼の栄達の始まりとなる。辜は当初、日本軍からスパイではないかと疑われたものの、結局日本軍を台北まで案内し、無血入城させた[4]。その後7月に日本の近衛師団が台湾を南下する際には辜も同行し、軍の道案内や抗日勢力の誘降を担当し、時には自ら現地の壮丁を「義勇軍」として組織して日本軍を支援した[5]。12月には日本に招待されて、東京にて内閣閣僚から歓待された上、勲六等を叙勲された[6]。一方で日本の領台初期には日本側から抗日勢力との関係を疑われており、逮捕もされている。だが程なくして疑惑は晴れ、釈放された。[7]
御用紳士
1896年1月、辜顕栄は台北保良局長に任じられ、台北の秩序維持にあたった[8]。保良局自体はほどなくして廃止されるが、1909年に台中庁参事、1920年に台中州協議会員、1921年に台湾総督府評議会員に任じられた[9]。また1896年に樟脳の製造と販売の許可を日本当局から受け、後には塩田開設やアヘン、タバコ販売の特権も認められて[10]、新興の台湾土着資本家として台湾五大資産家に名を連ねた[11]。1900年以降には開墾事業にも進出し、台中のニ林や鹿港、屏東で広大な土地を得ることとなる[12]。1920年代に、台湾島人による台湾議会設置請願運動が盛んになると、辜顕栄は台湾公益会を設立し、植民地自治を求めて台湾議会設立運動を推進する台湾文化協会に対抗した[13]。この際、当時の台湾総督府警務局長から、公益会の設立と引き換えに辜の債務を軽減する働きかけをすると持ちかけられた、とも伝わる[14][15]。
こうした辜顕栄の姿勢は日本植民地当局に与することで財を為し、台湾の植民地自治運動とは反する立場を取るものであったことから、植民地統治協力者としていわゆる「御用紳士」の代表とも評されている[16]。但し、台湾島人知識人による雑誌『台湾青年』(日本統治に批判的な雑誌新聞『台湾民報』の前身)が発行された際には、辜も資金援助を行っている[17]。
日本から1906年に勲五等、1915年に勲四等、1923年に勲三等に叙勲された[18]辜顕栄は、1934年7月に遂に貴族院議員に勅選された。辜顕栄が日本の領台直後から一貫して日本統治に貢献したことが理由とされる[19]。当時では台湾島人として最初かつ唯一の貴族院勅選議員であった。(更に言えば、当時の台湾では衆議院議員選挙は行われていなかった。)1937年12月に東京の別邸にて死去。死後に従五位が贈られた[20]。
家族
顕栄の子である辜振甫(実業家・海峡交流基金会理事長を歴任)と辜寛敏は、実業家として成功するとともに、総統府資政など公的役職を歴任した。辜振甫は台中に農地6000甲、塩田350甲などの膨大な遺産を相続した。寛敏の子にあたるリチャード・クーは、野村総合研究所研究創発センター主席研究員・チーフエコノミストを務めている。経歴
- 1884年 上海、南京に於いて製糖業を経営する
- 1888年 「施九緞の乱平定に功績があり、五品軍功を獲得する
- 1892年 上海、寧波に渡り基隆向けの石炭の販売を開始。日清戦争では南洋大臣張之洞との石炭供給契約を締結
- 1895年 士紳の要請を受け、日本軍の台北入城を要請する
- 1896年 台北保良局長に任命される
- 1898年 台北土匪との関連が疑われ2ヶ月間拘禁される
- 1900年 全台官売塩商組合長に就任
- 1905年 日露戦争に所有船12隻を参加、海上警備に従事
- 1909年 台中庁参事に選出、アヘン販売の特権を受ける
- 1914年 台中煙草専員人に就任。林献堂等と台中中学(現在の台中一中)を創設
- 1918年 第一次世界大戦後にジャワ砂糖で巨額の利益を得る
- 1920年 大和製糖を創立
- 1921年 昭和製糖を合併、総督府評議員に任命される
- 1923年 総督府の支援を受け林熊徴等と「公益会」を設立。林献堂等が要求する台湾議会設置請願運動に反対する。
- 1934年 貴族院勅撰議員に任命される
- 1935年 中国にて蒋介石と面会。日華親善を提唱
- 1937年 東京に於いて病没
4 件のコメント:
ほにゃらら国家の組長の功罪と限界
トランプのやっていることは、まさに後醍醐天皇だ
特権階級の巣窟と化した「ワシントン」の解体を目指す
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48988
>トランプ大統領の支持基盤である米共和党保守派はこうした状況について、「ワシントンD.C.が、税金を無駄遣いして私利私欲を貪る官僚と、彼らと結託して不当な利益を手にするマスメディア・有識者・ロビイスト・業者の巣窟」になっていると批判する。トランプ支持者たる保守層の多くは、ワシントンD.C.には増税の挙句の恣意的な配分とその結果による不当な富の蓄積がなされていると怒っているのだ。
>大和製陶
わぁ最近なんのネタでもトヨタっすな
パタパタパタパタ大活躍じゃなぃっすか
ぁ 暗躍って書かなきゃ正しくないかww
そういえば2年ほど前の出来事でしたが
辜(こ)一族の金庫でもある中國信託商業銀行が東京スター銀行を完全買収していましたね
http://www.tokyostarbank.co.jp/profile/dis201407/04_change_shareholder.pdf
日本金融当局が認可した背景はよくわかりませんが台湾へのカネの流れという点でも気になります
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