2016年12月9日金曜日

「白川フォント」(笑)

2016.12.8 07:01更新
古代文字の魅力知って 立命館大がデータベース「白川フォント」無料提供

立命館大は7日、漢字の古代文字を検索したり、パソコンの文字変換で使用できたりするデータベースの無料公開・提供を始めた。古代文字研究の第一人者だった故・白川静名誉教授の功績を広く知ってもらう狙いで、データベースの古代文字を「白川フォント」と総称した。

データベースでは、現在使われている書体(楷書(かいしょ))の漢字から、古代文字(甲骨文、金文、篆文(てんぶん)など5種類)へ変換できるようにした。

具体的な利用法は、インターネット上のデータベースで常用・人名で使われる漢字4391字分の古代文字を無料で検索できるほか、「白川フォント」をパソコンにインストールすれば、「ワード」「エクセル」などの文書作成ソフトで使用できるようになる。

立命館大白川静記念東洋文字文化研究所(京都市北区)の後藤文男さんは、今回の公開を通じ「古代文字が手軽なアート(芸術)作品として楽しめるなど、漢字の奥深さや面白さを知ってほしい」と話している。

詳細は、同研究所のホームページ(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/)。
http://www.sankei.com/region/news/161208/rgn1612080044-n1.html



白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日 - 2006年10月30日)は、日本漢文学者東洋学者学位文学博士京都大学)。大学名誉教授、名誉館友。福井県福井市出身。
来歴1923年、順化尋常小学校を卒業後、弁護士廣瀬徳蔵(大阪府会議員を経て立憲民政党代議士)の事務所に住み込み勤務し、成器商業夜間部(現大阪学芸高等学校)に通う。この時期に廣瀬の蔵書を読み漁り漢籍に親しみ独学していった。1930年京阪商業卒業。
立命館大学専門部国漢科(夜間)を1936年に卒業、在学中より立命館中学校教諭に、1941年に立命館大学法文学部漢文学科に入学。同大学予科・専門学部教授となる。1954年より立命館大学文学部教授を務めた。1976年に66歳で定年退職、特別任用教授になる。1981年には名誉教授の称号を受けている。晩年に自らの著作料の一部を大学に寄贈し、記念文字文化研究所が設立された(没時まで所長兼理事長)。
1962年、博士論文「興の研究」により文学博士号を取得(京都大学)。古代漢字研究の第一人者として知られ、字書三部作字統』[1984年、各.平凡社)、『字訓』(1987年)、『字通』(1996年)は、白川のライフワークの成果である。
20世紀が終わる時期より、平凡社で『白川静著作集』(全12巻)、『白川静著作集 別巻』(全4期に分け全23巻予定)を刊行開始。傍ら中学・高校生以上の広い読者を対象とした漢字字典『常用字解』や『人名字解』、インタビュー・対談なども収録した『回思九十年』、『桂東雑記』などを刊行。他にも多数の共著・監修がある。
期から春秋戦国にかけ青銅器が多数所蔵されている「白鶴美術館」で、長年講話を行っていた。漢文世代の最後の碩学と称せられた。
1999年3月から2004年1月まで地元京都で、「文字講話」を2時間年4回ペースで全20回行い、講演内容は『白川静 文字講話』(平凡社全4巻)にまとめられた。続編の希望が相次いだので新たに4回行ない、2006年10月初頭にその続編の著作校正を済ませ入院、同年10月30日、内臓疾患(多臓器不全)により逝去。96歳没。(結果として遺著となった)『白川静 続文字講話』は翌年刊行。生涯現役を通した。
2005年4月に福井県立図書館の中に愛用品など関連資料を展示する展示する「白川文字学の室」された。2010年4月に生誕100年を記念し、立命館大学図書館内に約2年かけて整理した「白川静文庫」が開設、蔵書や直筆原稿など約1万8千点を収蔵。併せて『文庫目録』も発刊された。没後10年となる2016年10月には、出身の福井において、記念フォーラムなど多彩な記念行事の開催や「白川文字学の室」のリニューアルが予定されている。
逸話白川の人となりは、自叙伝他の『回思九十年』[1]と、娘津崎史の回想記『父・白川静96歳 最期の日々』[2]に詳しい。
立命館大学教授時代、高橋和巳梅原猛らと親交を持つ。特に高橋とは同じ中国文学者として互いに評価しあっており、作家でもあった高橋の最晩年に書いた『わが解体』に、当時無名の一教授だった白川が『S教授』として登場している。
著書の重厚な印象から怖い人だという印象を受けがちであるが、生前の白川に接した人によれば、茶目も飛ばすような軽妙な一面もあったという。若い人とも気軽に話をし、インタビューにも応じている。若手では宮城谷昌光を「勉強熱心だ」「あなたの文は清新でよろしい」[3]と高く評価した。漫画家と対談するときには相手の作品をあらかじめ読んでおくなど、気配りの人でもあった。
荒川静香イチローが好きで、イナバウアーの真似をしたこともあったと娘が述懐している。病床でもニンテンドーDSで囲碁・将棋を楽しみ、「なかなか定石を知っとる」と悦んでいたという。
趣味は囲碁・登山。囲碁は相当な腕前で、若き日に関西棋院でプロから指導を受けるなどしていた。アマ六段に二子であったと自伝「回思九十年」で述べているので、四段の腕前であったと推測される。呉清源の新聞碁なども相当収集していた。病弱だった体を登山で鍛えていたため非常に健脚であった。
批判白川は、甲骨文字金文といった草創期の漢字の成り立ちに於いて宗教的、呪術的なものが背景にあったと主張したが、実証が難しいこれらの要素をそのまま学説とすることは、吉川幸次郎藤堂明保を筆頭とする当時の主流の中国学者からは批判され、それを受け継いでいる阿辻哲次も批判的見解を取っている。しかし、白川によって先鞭がつけられた代社会の呪術的要素の究明は、平勢隆郎ら古代中国史における呪術性を重視する研究者たちに引き継がれ、発展を遂げた。万葉集などの日本古代歌謡の呪術的背景に関しての論考もしているが、専門家の支持を受けているとは言いがたい。
中国古代学者で東京大学名誉教授の加藤常賢 (1894-1978) は、晩年講義で白川の『漢字』を罵倒していたといわれる。








→空海

→親鷲




要するに神道じゃなくて密教。
要するに白川神道じゃなくて吉田神道。(爆wwwwwww





、、、(爆wwwwwwwwww









、、、(爆wwwwwwwwwwww

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>白川家 内裏東側 建春門(日の御門・ひのごもん)前、日御門通(南北)に面した。
(京都・学習院跡 隣接)

>世界連邦
湯川記念財団 現 京都大学 北白川学舎(京都府京都市左京区北白川小倉町)
前身 S30 白川学舎 財団世話人 平凡社社長 下中弥三郎 私邸を研究者用の宿舎として提供

>京都大学@北白川
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京都大学の所在地は北白川の西に隣接する「吉田」であり、その施設の多くは吉田に存在し、北白川に存在するものは極一部---

>京都大学@吉田
吉田山 (京都市)
吉田山(よしだやま)は、京都府京都市左京区吉田神楽岡町に所在する孤立丘。別名は神楽岡(かぐらおか)や神楽ケ岡(かぐらがおか)であり、歴史的には吉田山ではなく神楽岡と呼ばれた[2]。 
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西側斜面は吉田神社の境内であり、西麓には京都大学吉田キャンパス・本部構内が、今出川通を挟んで北麓には吉田キャンパス・北部構内がある。山頂には旧制第三高等学校(現京都大学)の寮歌「紅もゆる」の歌碑が立っている[2]。山頂は都市公園として整備されており、大文字山(如意ヶ嶽)を一望できる。南麓には真正極楽寺(真如堂)や金戒光明寺がある。---

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