2016年12月18日日曜日

真田フランコと明石全登






明石 全登/景盛/守重(あかし たけのり[注釈 3]/かげもり/もりしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将は複数伝わり、定かではないが、「明石全登」の名が一番有名。全登は法号で「ぜんとう」と読むとする説もある[6]通称は掃部(かもん)で、明石掃部とも言う。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンであった。

備前保木城主の明石行雄(景親)の子として生まれた。生年を知る確実な史料は存在しないが、小川博毅永禄12年(1569年)前後に保木城で生まれた可能性が高いとする[7]。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)であり[8]、銅山経営者、技術統率者の側面を持つ一族である[9][注釈 4]
行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、天正3年(1575年)9月の浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り[10]、以後、宇喜多家に帰属することになった。行雄は弟の景行と共に、直家とその子の宇喜多秀家に仕えて天正16年(1588年)に諸大夫(従五位下)、4万石の知行までになった。行雄の嫡子・全登も行雄が存命中の文禄5年(1597年)4月以前にその跡を継いで[11]和気郡(現備前市吉永町大俣城(大股城)の城主・家老となったが、領国経営には携わっていない[12][注釈 5]
慶長4年(1599年)、お家騒動宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安宇喜多詮家(坂崎直盛)岡貞綱花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った[13]。当初、3万3,110石の知行だったが[14]、秀家の岳父である太閤豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった[8]
慶長5年(1600年)、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵すると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、石田方の西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢1万7,000のうちの8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君・秀家を諫めて大坂城へ退くように進言し、殿軍を務めた。西軍敗走の際に黒田長政に遭遇したという記述がある[15]
戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。
宇喜多氏が没落し浪人となった全登は、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水[注釈 6]の下で庇護されたといわれている[16]。中でも、如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が全登を匿ったとされている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。
慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると信仰上の問題で豊臣方として参陣した[17]。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成神保相茂伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直本多忠政藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。
その後の消息は不明である。『徳川実記』[18]『土屋知貞私記』『石川家中留書』など[19]徳川方の複数の家伝が全登はこの戦いで討ち取られたとし、『大坂御陣覚書』『大坂記』は水野勝成家臣の汀三右衛門が首を獲ったとし[19]、『石川家中留書』では石川忠総がその手で討ち取り、全登が豊臣秀頼から賜った吉光の短刀も分捕ったとする[19]。このように幾つかの史料は戦死説をとるが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、『大村家譜』『山本豊久私記』など[19]幾つかは嫡子内記と共に九州に、また『戸川家譜』[18]『武家事紀』[19]には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あって判然としない。もし南蛮へ渡ったとすればイエズス会文書などで特筆されるはずだが、全登の消息は記されていない事から南蛮逃亡説は空想の産物であろうとされている[20]

子孫


ただ、小川博毅によれば、これら日本各地にある明石全登(掃部)の末裔を自称する家系が多々あるが、いずれも確証はなく、おそらく明石一族の誇りとして明石全登(掃部)の事跡が語り継がれているあいだに、これらの家では、いつのまにか、全登(掃部)が自家の先祖に祀り上げられていったとしている[22]



徳川慶喜を批判 渋沢栄一の草稿発見
12月13日 6時09分

明治時代の実業家、渋沢栄一が明治維新期に江戸幕府の最後の将軍だった徳川慶喜に対して書いた書簡の草稿が見つかり、「鳥羽伏見の戦い」での慶喜の姿勢を強烈に批判するなど若き渋沢の心情を知る貴重な資料として注目されています。

書簡の草稿は、東京・北区にある「渋沢史料館」の学芸員が、渋沢家から寄贈された資料の中から見つけました。この中では大政奉還のあと、「鳥羽伏見の戦い」のさなかに徳川慶喜が大坂から引き上げたことについて、「戦(いくさ)は天下が望んだものなのに、江戸に戻り、朝廷に「恭順」するとは考えが徹底していない」としたうえで、「徳川300年の歴史を自ら棄ててしまう行為で、祖先や人民に何も尽くしたことにならない」と強烈に批判しています。

草稿は、幕末にパリ万博に派遣された徳川慶喜の弟の昭武から慶喜に宛ててパリで書かれたもので、近代の日本経済の礎を築いた渋沢栄一は、20代だった当時、使節団の一員として昭武に仕えていました。

渋沢は後年、昭武名義で慶喜に宛てた書簡の下書きを書いたと回想録で語っていて、渋沢史料館や研究者は筆跡などから今回、発見された草稿は渋沢が書いた下書きだと見ています。

幕末・維新史に詳しい聖徳大学の大庭邦彦教授は、「当時、徳川家の家臣だった渋沢栄一が慶喜を批判する資料があったとは驚きだ。渋沢が回想で語っていた実物の資料だと考えられ、大変、貴重な資料だ」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161213/k10010804571000.html









要するに実質的にロシア革命を引き起こし、ソ連を誕生させた明石元二郎はイエズス会のフロントだったわけでしょ。(爆wwwwwwwwwwww
まあ当時の欧州でいくら優秀でも日本人が一人でできる事なんて限界があったわけで・・・・(爆wwwwwwww

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめてコメントさせて頂きます

「キリスト教の正統は、ローマではなくロシアにある」
バチカンが隠ぺいしつづける不都合な歴史
http://diamond.jp/articles/-/53108

つまりロシア帝国ポシャらせたのはバチカンも噛んでた…?

匿名 さんのコメント...

幸村を九度山に呼びに来たのは明石でしたね。