皇太子ご夫妻 岐阜県を訪問 水路など視察
11月9日 20時30分
皇太子ご夫妻は、9日、岐阜県を訪れ、古くから住民の生活用水などとして使われてきた水路などを視察されました。
皇太子ご夫妻は、9日昼前、新幹線でJR岐阜羽島駅に到着し、集まった大勢の人たちに笑顔で手を振って応えられました。
ご夫妻は、はじめに郡上市八幡町を訪ねられました。
町には江戸時代の初期までに原型が造られたとされる水路が張り巡らされ、今もその水が住民の生活用水として使われています。
ご夫妻は、水路の一角にある「カワド」と呼ばれる洗い場に足を運び、説明役の住民に「本当にきれいな水ですね」などと話されていました。
続いて、創業400年余りの藍染めの染め物店を訪問し、店先の水路の水に染めた布をさらす作業をご覧になりました。
皇太子さまは職人の男性に「手が荒れることはありませんか」などと尋ねられ、雅子さまは「寒いときは大変ですね」などと言葉をかけられていました。
雅子さまは、体調不良で学校を休むなどしてきた長女の愛子さまの看病やその間の公務による疲れで、先月、予定していた岩手県への訪問を取りやめましたが、9日は体調を整えて臨まれたということです。
ご夫妻は、10日、岐阜市で開かれる「全国農業担い手サミット」に出席されることになっています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161109/k10010762591000.html
郡上藩(ぐじょうはん)は、江戸時代に美濃国(現在の岐阜県郡上市八幡町)に存在し郡上郡の大半と越前国の一部を統治した藩。藩庁は八幡城。八幡藩(はちまんはん)とも。[1]
藩史
郡上は戦国時代、織田信長や豊臣氏の家臣であった遠藤氏、次いで稲葉氏の支配下にあった。関ヶ原の戦いで稲葉氏が豊後臼杵藩に移された後、遠藤氏も関ヶ原で東軍に与して戦功を挙げたことから、遠藤慶隆は2万7,000石を与えられて旧領復帰を許され、ここに郡上藩が立藩した。第3代藩主・遠藤常友は弟の遠藤常昭に2,000石、同じく遠藤常紀に1,000石を分与したため、郡上藩は2万4,000石となった。そして寛文7年(1667年)に城を大改修したことから、遠藤氏は城主格から正式な城主として遇されることとなった。ところが第4代藩主・遠藤常春の時代である延宝5年(1677年)から百姓一揆と家中騒動が勃発する。常春はこれを天和3年(1683年)に一応鎮めたが、元禄2年(1689年)3月24日に謎の死を遂げた。その後を継いだ遠藤常久は元禄5年(1692年)3月29日に7歳で家臣に毒殺された。嗣子もおらず、本来であれば改易となるところだが藩祖の功績を賞して存続が許され、遠藤氏は一族の遠藤胤親が同年5月に常陸・下野両国内で1万石(三上藩)を与えられて移封となった。同年11月、井上正任が常陸笠間藩から5万石で入った。しかし第2代藩主・井上正岑のときである元禄10年(1697年)6月、丹波亀山藩に移封された。その後に出羽上山藩から金森氏が入った。ところが第2代藩主・金森頼錦の時代である宝暦4年(1754年)から4年の長きにわたって年貢増徴に反対する百姓一揆が起こる(いわゆる郡上一揆)。さらには石徹白騒動(白山中居神社の指導権をめぐっての神主派・神頭職派の争い)と続き、頼錦は宝暦8年(1758年)12月に所領を没収されて改易となり、盛岡藩へ身柄を預けられた。
その後、丹後宮津藩から青山幸道が4万8,000石で入る。幕末期の藩主・青山幸哉は日本で最初にメートル法を紹介したとされている『西洋度量考』の編者として知られている。最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉は幕府側に味方するなど、藩は2つに分かれて混乱した。
明治4年(1871年)の廃藩置県で郡上藩は廃されて郡上県となり、同年11月に岐阜県と福井県に分割され編入された。
、、、(爆wwwwwwwwwwww
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太宰府 九州国立博物館
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