2016年10月8日土曜日

Remember 村田珠光












村田 珠光(むらた じゅこう、応永29年(1422年)または30年(1423年) - 文亀2年5月15日1502年6月19日)または7月18日8月20日))は、室町時代中期の茶人。「わび茶」の創始者と目されている人物。なお僧であったため、本来ならば苗字は記されないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている[1]
近年では「しゅこう」と濁らせないとする説もある。
生涯父は検校の村田杢市。幼名・茂吉、木一子。奈良の浄土宗寺院称名寺に入れられたが出家を嫌って上京し、京都三条に住み茶の湯を学ぶ。30歳の頃に禅僧となり、臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅。印可の証として一休から圜悟克勤墨蹟を授けられる。茶禅一味を体得し、内実化に邁進する。能阿弥との関係も深く、花の弟子となり茶・目利きを学ぶ。その後、能阿弥の引き立てにより足利義政の知遇を得る。還俗し、六条堀川醒ヶ井通西に茶帝を構える。了海上人遷化ののち奈良へ帰る。京都にて死亡。
しかし珠光に関する資料は少なく、以上の内容は伝承の粋を超えない。
一休開基の真珠庵の過去帳の文亀2年5月15日1502年6月19日)条に「珠光庵主」の名が見え、一休13回忌に一貫文を出しているから(熊倉功夫「茶の湯の歴史」朝日選書)大徳寺に深い関わりを持っていたことは確かである。なお一休に参禅していたとしてもこれは諸宗兼学の修行であって、珠光が臨済宗へと宗派を変えたとは言い切れない(但し、確かに養子の宗珠は臨済宗の僧侶となっている)。戦後の研究では還俗して商人になったとされてきたが、珠光64歳の時期に当たる『山科家礼記』に「珠光坊」という記述が発見されたことから現在では一生僧侶であったと改められている。さらに『山上宗二記』(二月本)中の「珠光一紙目録」により室町幕府8代将軍・足利義政に茶道指南として仕えたともされたが、これは同書中の能阿弥に関する記述がその生没年と合わないことから現在の茶道史研究では基本的に否定されている。
珠光の茶の湯能阿弥により整備された会所の茶から能や連歌の影響を受け一休宗純との関わりから禅を学び、能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求しわび茶の精神をつくった。その端は将軍家や有力大名たちが金に物を言わせて集める高級輸入品の唐物道具、それらを飾り付ける室礼の方法など当時隆盛していた会所の茶のスタイルとは対抗しなかったことによるものであろう。珠光の作り出した茶室は縮小された4畳半で、書院風の宝形造。床は一間。会所では主に飾りと点て出しのために使われていた台子を点茶用の棚として客前に登場させた(南方録)。
こうして道具賞玩の場であったそれまでの茶会を精神性の高い交流の場としようと試みた珠光の茶は「奈良茶湯」とも呼ばれ、能阿弥の紹介によって珠光の茶湯に接した将軍足利義政は珠光のパトロンとなった[2]。珠光は茶席の侘びの思想として「月も雲間のなきはいやにて候」という言葉を残している[2]
一の弟子である古市澄胤に与えたという「古市播磨法師 珠光」と題された軸装の文書(通称「心の師の文」)は有名。同資料に登場する「ひえかるる」という表現は連歌で使われている用語であり、珠光の茶の湯が連歌の影響を大きく受けていたことを窺わせる。珠光は他の芸能者達との交流もあり、能楽師金春禅鳳の聞書きを記した『禅鳳雑談』に有名な「珠光の物語とて 月も雲間のなきは嫌にて候 これ面白く候」という一節が遺されている。ここに見られる完全性を拒否する姿勢こそが、「わび茶」へと繋がる新しい喫茶文化の端緒を開くものであった。
室町時代の将軍家における唐物を賞玩する喫茶文化(会所)では天目龍泉窯の青磁茶碗が好まれていたが珠光は粗末な《珠光茶碗》を賞美し、こうした「ひえかるる」美学に適えば粗末な道具でも用いて良しとする茶の湯を確立した。
珠光のわび茶の茶の湯は珠光により完成されたものとは言えず、富裕層における後継者を得たことによりその精神が残り広められたといえる。後の茶の湯文化の開化までには、およそ80年の月日を要する。
珠光の門下古市澄胤(小笠原家茶道古流)、村田宗珠(珠光の養子)、鳥居引拙・名人、十四屋宗伍、藤田宋理・目聞き、竹蔵屋紹滴・花、大富善好、粟田口善法、金田屋宋宅、など京都、奈良、堺の人物。いずれも珠光の作法をまとめて受継いだというわけではなくある者は所作、ある者は花にと得意分野に特化し「わび茶」を成して行った。



称名寺(しょうみょうじ)は奈良県奈良市菖蒲池町にある浄土宗西山派の寺院である。山号は日輪山。
文永2年(1265年)に興福寺の学僧が常行念仏の道場として創建したものである。当初は興福寺の別院で、興北寺(こうほくじ)とも称した。また、侘び茶の祖として知られる村田珠光が11歳のときに出家したとされる。













で、村田さんのある意味、生まれる前は日本人だったと言える奥様と言えば・・・





そのうちに誰かさんみたいに、

「この辱め、どうしてくれるの!」

とか言い出しそうですな。(爆wwwwwwwwwww


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

imperial concubine japan

Concubinage Japan

コメントを投稿