2016.10.25 20:21更新
作家の塚本哲也氏が死去
塚本哲也氏(つかもと・てつや=作家、元東洋英和女学院大学長)22日、肺炎のため死去、87歳。葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会を開く。喪主は甥、木村知勇(きむら・ともお)氏。
昭和29年、毎日新聞社入社。連載「学者の森」(共同執筆)で日本新聞協会賞。退社後、平成5年に「エリザベート」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
http://www.sankei.com/life/news/161025/lif1610250037-n1.html
芥川賞作家の高井有一さん死去
10月26日 18時43分
秋田県の角館を舞台にした小説「北の河」で芥川賞を受賞し、「内向の世代」の作家の1人として知られる高井有一さんが、26日午後、心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。84歳でした。
高井有一さんは昭和7年に東京で生まれ、共同通信社で記者として働きながら、立原正秋さんらとともに同人誌「犀」を刊行しました。
昭和41年には、太平洋戦争中に秋田県の旧角館町に疎開していたときに母親が自殺した体験を描いた小説「北の河」で芥川賞を受賞しました。
みずからの内面を描いた「内向の世代」の作家の1人として知られ、「高らかな挽歌」や「時の潮」など、戦後の日本に生きる人たちを端正な文体で描き、数々の賞を受賞しました。
平成8年には日本芸術院の会員に選ばれたほか、平成12年からは日本文芸家協会の理事長を務めました。
去年10月には角館の桜や母親、友人などについてつづったエッセー集「時のながめ」を発表しましたが、親族によりますと1か月ほど前に体調を崩して入院を続け、26日、亡くなったということです。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161026/k10010745251000.html
塚本哲也
群馬県生まれ。旧姓・木村。木村裕主は実兄。東京大学経済学部卒。毎日新聞社に入社し、政治記者として岸信介を担当する。1959年、オーストリア政府給費留学生として首都ウィーンに留学することになり、ウィーン留学経験のある人に話を聞きたいといって紹介されたのがピアニストの塚本ルリ子で、哲也のあとからルリ子は二度目のウィーン留学、1962年に結婚し塚本姓となった。ルリ子の父(塚本憲甫)は国立がんセンター総長などを務めた医師だった。
ウィーンで国際法を勉強して、その後毎日新聞ウィーン支局長として再度渡墺、のちプラハ支局長として68年のソ連軍プラハ侵攻を取材した。その後ボン支局長を経て帰国、論説委員、毎日新聞連載「学者の森」(共同執筆)で日本新聞協会賞を受賞、退職後は、防衛大学校教授、同図書館長を務めながら執筆活動を行い、1987年に『ガンと戦った昭和史』で講談社ノンフィクション賞(これはルリ子の父を描いたものである)。兄木村裕主も、1990年に講談社ノンフィクション賞を受賞し兄弟受賞となった。
1993年、『エリザベート』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞、1999年より2003年まで東洋英和女学院大学学長を務めた。オーストリア共和国文化功労勲章、オーストリア共和国有功大栄誉銀章受章。
2002年、脳出血で倒れ、右半身麻痺となる。群馬県のケアホーム新生会に移住し、リハビリを兼ねて左手で打つパソコンを始め著述活動を再開、『マリー・ルイーゼ』を執筆中の2005年に、ルリ子夫人は、腹部大動脈瘤破裂で急逝している。
著書
- 『フィンランド化 ソ連外交の論理と現実』(教育社、1978年)
- 『ガンと戦った昭和史 塚本憲甫と医師たち』(文藝春秋(上下)、1986年/文春文庫、1995年)
- 『平和ドイツの時代』(文藝春秋、1991年)
- 『エリザベート ハプスブルク家最後の皇女』(文藝春秋、1992年/文春文庫(上下)、2003年)
- 『わが青春のハプスブルク 皇妃エリザベートとその時代』(文藝春秋、1996年/文春文庫、1999年)。エッセイ集
- 『マリー・ルイーゼ ナポレオンの皇妃からパルマ公国女王へ』 (文藝春秋、2006年/文春文庫(上下)、2009年)
- 『メッテルニヒ 危機と混迷を乗り切った保守政治家』(文藝春秋、2009年)
- 『我が家の昭和平成史 がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏』文藝春秋企画出版部、2016年。自費出版
翻訳
- ゲルハルト・ダンプマン『孤立する大国ニッポン』ティビーエス・ブリタニカ 1981
高井 有一(たかい ゆういち、1932年4月27日 - 2016年10月26日[1])は、日本の小説家。内向の世代の作家の一人。本名は田口哲郎。日本芸術院会員。
祖父は角館町出身の小説家だった田口掬汀(たぐちきくてい)。父は画家の田口省吾(しょうご)。
坪田譲治文学賞選考委員。
父田口省吾、母信子の長男として、東京府北豊島郡長崎町に生まれる。1943年祖父、父があいついで死去。45年母妹とともに秋田県へ疎開するが、11月に母が死去し、母方の叔父最上孝敬に引き取られる[2]。成蹊高等学校で中村草田男の授業を受け、1951年成蹊大学に進学した。1952年に早稲田大学第二文学部英文学科に編入し、1955年に卒業した。
共同通信社文化部記者として勤務する傍ら、1964年7月、同人雑誌『犀』の創刊に参加。1965年4月に「夏の日の影」を発表し、同人の立原正秋、加賀乙彦、後藤明生らの知遇を得る。 1965年10月に『犀』に発表した「北の河」で、1965年度下半期の芥川龍之介賞を受賞する。 1975年に共同通信社を退社、作家専業となる。
1977年から刊行された季刊雑誌『文体』(平凡社)で、古井由吉、坂上弘、後藤明生とともに責任編集者を務めた。84年、共同通信社の同僚だった中村輝子と結婚。
1996年日本芸術院会員。2000年より2002年まで日本文芸家協会理事長。2008年日本近代文学館理事長[3]。
Ernst von Wolzogen (23 April 1855 – 30 August 1934 was a cultural critic, a writer and a founder of Cabaret in Germany.
Wolzogen came from a noble Austrian family; he studied Literature, Philosophy, and the history of art in Strasbourg and Leipzig. In 1882, he went to Berlin where he worked as an editor at a publishing house and later became an independent writer. From 1892 to 1899, he lived in Munich where he founded the Freie Literarische Gesellschaft, a literary society. In 1899, he returned in Berlin where he established the Cabaret Überbrettl, a play on Nietzsche's term Übermensch. He wrote social satires for Überbrettl. After its closure in 1905, he returned to Darmstadt.
岸信介と言えば塚本素山なわけで・・・(爆wwwwwww
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