2016年10月26日水曜日

長崎県佐世保市瀬戸越3丁目の松浦鉄道



















大智庵城址

住所:長崎県佐世保市瀬戸越

城郭構造:平山城

築城年:延徳2年(1490)

築城主:松浦守定

登城時間:長命寺駐車場より5分ほど。(自己責任でお願いします)

汗かき度:☆☆☆


ここは宗家松浦氏の本城の跡である。宗家松浦は今福相神浦生月などの地を領して相浦の武辺城にいたが第14代丹後守定のとき群雄相争う戦国の世に備えてここに城を築いて移った。
築城は延徳2年(1490年)相浦谷と佐世保谷の峡央を占めるこの小山を利用して築いた堅固な平山城であった。だがこの城も明応7年(1498年)12月、平戸松浦の夜襲を受けて一夜にして落城、
「叶はしとや思ひけむ女の姿にやつして落ち給ふを、政に背き平戸へ走りし山田四郎左ェ門、案内は知りたり落口に待ち構え敢えなく政を討ち取りけり」(三光譜録)
城主の丹後守政もまた非業の死をとげた以来およそ480年往時の城の姿はもはや見るべくもない。だが松浦家に残る右の古図や本城跡に建つ城主政の幕や、これを取り巻く五輪の墓が、この城の悲劇と佐世保戦国史の一面を物語ってくれるであろう。
現地説明板より





松浦氏 三つ星/平戸梶
(嵯峨源氏渡辺氏流)


松浦氏の出自に関しては、嵯峨源氏渡辺氏流というのが定説である。すなわち、渡辺綱の曾孫にあたるという源久は、 肥前国にある「宇野御厨荘」の御厨検校に任ぜられて松浦に下向した。やがて、赴任地に土着した久は松浦の中心に 位置する今福梶谷に館を構え、 背後の城山に勝屋城を築き、松浦氏発展の基礎を築いた。
松浦氏の出た渡辺氏の家紋は「三つ星に一文字」で、「渡辺星」とも称されるほどに渡辺一族は挙って用いたが、 松浦氏と一党は宗家をはばかって「渡辺星」の一文字を外した「三つ星」を家紋としていた。三つ星とはオリオン座の 中央に列する三星にちなんだもので、オリオンの三星は大将軍星、左将軍星、右将軍星に擬えられ、三武、将軍星などと よばれ武神として信仰された。もっとも、平安時代に、三つの円形を「品」字形に配した文様、いわゆる水玉模様が 用いられており、それが三星の謂れと結びついて家紋になったものと思われる。 将軍星とよばれるだけに、三つ星紋は武家の間におおいに広まった。
ところで、夜空に輝く星を西洋では「★」形に表現するが、我が国では「●」で表現している。 その呼称も易学の影響から「星」とは呼ばずに「曜」と称されることも多く、妙見信仰から生まれた星紋は曜星紋と よばれる。もっとも有名なものが桓武平氏流千葉一族が用いた九曜・七曜などの多曜星紋である。妙見信仰とは天の中心である 北極星を妙見菩薩として具現化、弓箭守護の仏天として崇敬したものである。 九曜・七曜紋は北極星を囲んでまわる北斗七星を象ったもので、武の象徴として家紋に用いられるようになったものだ

http://www2.harimaya.com/sengoku/bukemon/bk_matura.html













、、、(爆wwwwwwwwwww

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

どーでもいい話かもしれませんが・・・

むかーし長崎から下りの特急に乗った時に駅を出てからすぐに減速したんです。
1両目だったことも手伝って何事かと運転席と窓の外を交互に見てて
4歳前後の女児が柵の下をくぐって抜けていくのが見えたんです。
特に施設の踏切も何もないようなところでですから、
この辺の子供はよくやってて運転士泣かせのポイントなんではないか
と推測したんですけどね。
特急とはいえ駅を出たばかりで加速中、とはいえ特急、未だに運転士が凄いとしか思えない。