2016年8月1日月曜日

櫻井よしこが正定事件の犯人と従軍慰安婦連行犯が「旧日本軍所属の朝鮮人又は満洲人兵士」だったといふ不都合な真実を隠ぺいしようとしてる件

 【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】
外務省に日本と日本人の名誉を守る気概はあるのか。強い疑問を抱かざるを得ない。

旧日本軍とは無関係の国際的神父殺害事件を旧日本軍の犯行であったかのように政府高官に報告し、中国の対日歴史非難と歩調を合わせるかのような情報操作を、外務省が行っていた疑いがある。

右の神父殺害事件は1937(昭和12)年、旧日本軍の南京攻略に先立つ10月9日に発生した。中国河北省正定で、当時フランス政府の管轄下にあったカトリック教会が襲われ、神父9人(オランダ人神父を含め全員がヨーロッパ人)が殺害された。世に言う「正定事件」である。

正定事件に関し、中国とオランダは犯人は旧日本軍、殺害理由は日本軍が女性200人を要求したのを神父らが断ったことだと断定する。

命を犠牲にして女性たちを守った神父は、「徳と聖性の高い福者(聖人に次ぐ立派な人材)」であり、列福して顕彰すべきだと両国が2014(平成26)年以来バチカンに働きかけている。

世界13億人弱の信者を擁するバチカンの影響力は計り知れない。折しも中国はイギリスまで巻き込んで慰安婦問題をユネスコの記憶遺産に登録申請した。9人の神父列福の動きは、中国の対日歴史戦の一部であろう。

正定事件と中国の動きについて、私は遅まきながら今年に入って初めて報道した。素早く反応したのが官房副長官の萩生田光一氏だった。外務省に調査を命じ、外務省は直ちに資料をまとめた。要点は「日本軍は9人を殺害した。しかし、女性を要求した事実はない」である。

だが、外務省報告は根本から間違っていた。それを私は読者の中林恵子さんと熊岡醇氏に指摘されて知った。届いた資料の中に当時の在北京日本大使館員、森島守人参事官の公文書が含まれていた。これはスイス在住の日本人女性がナントのフランス外交史料館で入手したものだ

森島公文書は1938(昭和13)年2月13日付、在北京フランス大使館のフランシス・ラコステ氏宛てに日本政府が行った事件の調査結果を報告したものだ。

そこには犠牲者への深い哀悼と、日本軍が第三国の国民、とりわけミッショナリー(宣教師)の生命と財産保護のために取った具体的措置が詳述されているが、最も大事なことは、犯行は日本軍ではなく、「支那敗残兵」によるものと明記した点だ。

当時、支那敗残兵が正定の教会に避難した人々の中に紛れ込んでいた。物証は、彼らが事件の犯人であることを示しており、森島氏は次のように記している。

「その後も続けた調査では、支那敗残兵の犯行であるとの結論を覆す証拠は見つからなかった。従って日本政府は当該事件に関する責任を負いかねるのみならず、占領地で起こったすべての件に関して責任をとりかねる」

犯人は日本軍ではない、支那敗残兵であるとした森島文書は、外務省欧亜局第二課が1939年2月28日時点でまとめた「支那事変に関連する在支第三国(英米を除く)財産被害調査表」にも、「13年(1938年)2月13日付フランス大使館宛公文を以て回答」と記録されている。外務省本省も、事の本質を十分に知っていた。

それに対してフランスは13年4月16日付で、「大使館覚書を以て本件に関しては今後何等問題を提起せざる旨申し越」していた。

犯人は日本軍ではなく、支那敗残兵だったという説明に、フランス政府も納得し、もはや同件は問題にしないと、言ってきたのである。

ではなぜ、外務省はこの肝心の森島公文書を萩生田氏に見せなかったのか。外務省の罪は森島文書を見せなかったことにとどまらない。外務省作成の説明資料で24行中20行が、必ずしも正確ではない当時の報道や教会報の紹介に割かれている。

「宣教師は正規軍の日本兵(Japanese soldiers of the regular army)によって殺害されたものとの結論に達した」などという「『タブレット』紙による詳細な記述」なるものも萩生田氏に報告している。

資料の最後には「日本外務省の文書」から「9名は『満州軍により殺害』」という部分と見舞金が支払われたことも引用されている。

これでは誰しも、満州軍が殺害した、満州軍は日本軍だ、しかし見舞金の支払いでフランス側は納得したと考えるだろう。

そこでもうひとつの疑問である。日本の外交資料に記述された満州軍とは何か。

当時、満州国と中国の国境付近に展開していた軍は5つに大別できる。大日本帝国正規軍としての日本軍、満州国正規軍としての満州国軍、蒋介石の国民党軍、毛沢東の共産党軍、張学良の東北軍だ。

外交資料には満州軍と書かれているが、それは満州国軍ではなかっただろう。満州国軍は1937(昭和12)年10月、日本軍の北支方面軍進攻に応じて北支に外征中だった。北支とは黄河以北のことで正定とはあまりにも距離があるからだ。

では、満州軍が日本軍、つまり関東軍を指している可能性はどうか。この件については歴史家の田中秀雄氏が平成27年1月号の『正論』に詳述した。

詳細は氏の論文に譲り、私はただ、10月8日から11日までの連続した激しい部隊展開の中で、日本軍が「正定事件」を起こすことなど不可能だったこと、森島氏が当時日本政府を代表して書いたように、正定事件は支那敗残兵、恐らく張学良の東北軍の犯行である可能性が高いことだけを指摘したい。

外務省は、先輩外交官の残した貴重な公文書に反して、日本をおとしめる情報を政府高官に上げていた。意図的な情報操作か。それとも外務省の情報把握能力の問題か。

私が事件の全体像を把握できたのは本稿で言及した民間の人々の情報発掘の努力のおかげである。本来外務省が行うべき仕事を民間人が危機感に突き動かされて代行している。この現状ほど、寒心に堪えないものはない。
http://www.sankei.com/premium/news/160801/prm1608010005-n1.htm

櫻井よしこが回復しようとしてる「名誉」は日本の名誉ではなく大日本帝国軍所属だった朝鮮人、または満州人の名誉でしょ。(爆wwwwww




事件否定派による反応 
2013年4月11日発行のカトリック新聞オンライン「旧日本軍に殺された司教、列福へ一歩前進」掲載後、この虐殺事件の真偽が問題視された。
確かに、カトリック新聞オンラインの記事にもあるように、欧州側の資料では、殉教から1ヶ月半後の1937年11月22日にカトリック信徒の横山少佐率いる日本軍の「宣撫班」が正定県で追悼ミサを行っているが、これが事実ならば[16]「なぜ虐殺した側が、事件発生40日後に追悼ミサを行っているのか?」という矛盾が生じる。
しかし、1938年4 月2日発行の『The Tablet』に掲載されている調査後の報道は、犯人を日本軍所属の朝鮮人または満州人兵士と断定し、カトリック新聞オンラインで言及される欧州側の資料 の内容と一致する部分が多い。この記事が事実ならば、一部兵士の軍紀違反の行動を日本軍自らが正した事例であることになる。そして、日本側が追悼ミサを 行った理由も説明がつき、「宣撫班」の使命にも合致する。また、事件発生当時の報道には、事件発生から75年後に報道されたカトリック新聞オンライン「旧日本軍に殺された司教、列福へ一歩前進」にある「教会施設にいた避難民の中から200人の女性(少女を含む)を引き渡すよう求めたことに抵抗したため殺害された」というような犯行目的の記載は無く、後世に脚色された可能性は否定できない。
2013年4月23日には西村眞悟がブログ上で抗議する[17]など波紋を呼んだ。西村は「殺害したのは日本軍ではなく中国の山賊である。この報道は日本人は西洋人の聖職者も殺戮していた人類の文明に対する敵だという強烈なプロパガンダを可能にする捏造である」としている[18]
また、2013年2月21日発行の『読売新聞大阪版(夕刊)』に掲載されている記事に対して、カトリック信徒有志による「教会の政治的言動を憂慮する会」から池長潤大司教宛てに公開質問状が送られた[19]。/ 
ja.wikipedia.org/wiki/正定事件


旧日本軍所属だった朝鮮人・満州人兵士なら慰安婦200人を要求してても不思議じゃないわけですし「日本人の名誉」とは無関係なわけで、櫻井さんもお里が知れてしまいそうですなあ・・・(爆wwwwwwww

要するに従軍慰安婦連行犯は旧日本軍所属の朝鮮人兵士だったってのがキムチシンパにとっては不都合な真実なわけでしょ。(爆wwwwww


2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>櫻井よしこが回復しようとしてる「名誉」は日本の名誉ではなく大日本帝国軍所属だった朝鮮人、または満州人の名誉でしょ。(爆wwwwww

高田さんもコレなんですよ…

匿名 さんのコメント...

http://www.xinde.org/news/29617.html