文芸評論家の川西政明さん死去
「武田泰淳伝」など
2016/8/26 12:12
死去した川西政明さん 「武田泰淳伝」など文学者の評伝や作家論を数多く手掛けた文芸評論家の川西政明(かわにし・まさあき)さんが26日、急性心筋梗塞のため死去した。75歳。大阪市出身。
河出書房新社で編集者として作家の高橋和巳らを担当した後、退社して文芸評論家に。埴谷雄高さんや吉村昭さんをはじめ多くの文学者の評伝や作家論を執筆した。
「昭和文学史」(全3巻)や、2013年に全10巻で完結した「新・日本文壇史」では、膨大な資料を基に、大正、昭和の文学者の熱気あふれる生きざまを再現した。
1997年「わが幻の国」で平林たい子文学賞、「武田泰淳伝」で2006年に伊藤整文学賞を受けた。
http://this.kiji.is/141736057601032196?c=110564226228225532
これまた大反英米帝国創設計画失敗のお知らせですなあ・・・(爆wwwwww
川西 政明(かわにし まさあき、1941年8月5日 - 2016年8月26日[1])は、日本の文芸評論家。日本文芸家協会、日中文化交流協会会員。
大阪府大阪市[2]生まれ。広島県尾道市出身[3]。1965年[4]、中央大学商学部[5]卒業後、河出書房新社へ入社し、文芸編集者生活時代には『高橋和巳作品集』、『埴谷雄高作品集』などを編集、渡辺淳一の担当だった。1972年に退社後[6]、文芸評論活動に専念。戦後派文学や新日本文学会で活動した作家に関する論考が多い。1997年『わが幻の国』で第25回平林たい子文学賞、2006年に『武田泰淳伝』で第17回伊藤整文学賞(評論部門)を受賞。
一般財団法人日本中国文化交流協会(にほんちゅうごくぶんかこうりゅうきょうかい)は、日中友好7団体の一つで民間法人。
黒井 千次(くろい せんじ、1932年5月28日 - )は、日本の小説家。本名、長部舜二郎。「内向の世代」の作家の一人と呼ばれる。日本芸術院長。息子はフジテレビプロデューサーの長部聡介。
韓国電力公社 東京支社 (支社長: 徐 奎錫) 住所:〒100-0006 東京都千代田区有楽町1-10-1 有楽町ビル604号
韓国電力公社(かんこくでんりょくこうしゃ)は、大韓民国の公営電力会社である。通常は韓国電力、韓電、もしくはKEPCOと呼ばれる。韓国政府が株式の51%を保有している。本社は全羅南道羅州市。
- 1898年:李氏朝鮮末期に漢城電気株式会社が設立。朝鮮半島にて電気事業が始まる。その後、各地域で小規模な電力会社が設立される。
- 日本の戦時下の経済統制により、1943年までに朝鮮電業、京城電気、南鮮合同電気の3社に統合される。
- 1961年:朴正煕(パク・チョンヒ)政権下の電力統合政策により、朝鮮、京城、南鮮の3電力会社が合併し韓国電力株式会社に。
- 1978年:韓国で初の原子力発電所となる古里原子力発電所が稼動。
- 1982年:国有化され、韓国電力公社へ。
- 1989年:株式を一般へ発売。韓国証券取引所(現、韓国取引所)へ上場(証券コード:15760)。
- 1994年:韓国企業で初めてニューヨーク証券取引所へ上場(証券コード: KEP)。
- 1994年10月:韓国放送公社 (KBS) の受信料委託徴収開始。
- 1998年:アジア通貨危機後の構造改革の一環として、段階的な民営化を行うことを決定。
- 2001年:電力自由化を見据え、発電部門を6社(水力発電・原子力発電子会社と5つの火力発電子会社)に分割。
- 2005年6月:韓国政府による行政機関の地方移転政策の一環として、光州広域市への本社移転を発表。
- 2011年9月15日:電力需要予測の甘さから、離島を除く全国で大停電を発生させる。李明博大統領が本社に怒鳴り込む騒ぎに発展。
- 2014年9月18日:本社移転に伴う本社敷地売却の入札結果、現代自動車グループが10兆5500万ウォンで落札。
- 2014年12月:本社を全羅南道羅州市に移転。
、、、(爆wwwwwwwwww
武田 泰淳(たけだ たいじゅん、1912年(明治45年)2月12日 - 1976年(昭和51年)10月5日)は、日本の小説家。第一次戦後派作家として活躍。主な作品に『司馬遷』、『蝮のすゑ』、『風媒花』、『ひかりごけ』、『富士』、『快楽』など。
妻は随筆家の武田百合子、娘は写真家の武田花。兄は水産生物学者・東大教授の大島泰雄。伯父に僧侶・仏教学者・社会事業家の渡辺海旭がいる。
東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。長い間二男とされていたが、上田女子短期大学教授の長田真紀の研究[1]によって、夭折した次兄・信也がいたことが明らかになった。出生名は覚(さとる)。
父の師にあたる武田芳淳に養子に入り、武田泰淳と姓名を変更する。
京北中学校、浦和高等学校を経て東京帝国大学文学部支那文学科に入学、竹内好と知り合う。左翼活動を繰り返し、1年の時、中央郵便局でゼネスト呼びかけのビラ配布に参加して逮捕され、1ヶ月ほど警視庁丸ノ内署や本富士署に身柄を拘束される。釈放後に大学を中退し、1934年、魯迅の弟、周作人来日歓迎会を機に竹内好らと共に「中国文学研究会」を設立する。
1937年、華中戦線に送られるが2年後に除隊される。1943年、『司馬遷』刊行。終戦時には上海に滞在していた。日本に帰国して、1947年、『蝮のすゑ』発表。同年、北海道大学法文学部助教授として勤務した。翌年には『近代文学』の同人となり、作家活動に専念するため退職し帰京。
1951年、昭森社社主の森谷均がオーナーで当時文学者が多く集まっていた神田の喫茶・文壇バーの「ランボオ」で働いていた鈴木百合子との間に子ができる。長女・花の誕生と共に、11月に鈴木百合子と結婚。戦時中に起きた知床岬沖で遭難した船長の食人事件をテーマに、1954年『ひかりごけ』を発表。この作品により前述の事件はひかりごけ事件と言われるようになった。北海道滞在時に接したアイヌを題材にした『森と湖のまつり』が、発表直後の1958年には映画化された。翌年には二・二六事件を舞台にした『貴族の階段』が吉村公三郎監督で映画化された。
1964年、富士桜高原の別荘地「字富士山(あざふじさん)」に別荘「武田山荘」を構え、東京都港区赤坂の自宅に加え、よく過ごすようになる。
1969年(昭和39年)10月から、週の半分を過ごしている山梨県南都留郡鳴沢村の富士桜公園山荘から着想を得て、太平洋戦争末期の富士北麓の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を文芸雑誌『海』に連載し、1971年に刊行した。『富士』執筆中に酒量が増え刊行後は、糖尿病原因の脳血栓症で入院、片麻痺が残ったため以後の作品は妻百合子の口述筆記により書かれた[2]。 1973年に『快楽』で、日本文学大賞を受賞、1976年に『目まいのする散歩』で、野間文芸賞を受けるも、『秋風秋雨人を愁殺す』での1968年度芸術選奨文部大臣賞や日本芸術院会員の選出などの国家的栄誉は辞退し続けた。
1976年10月5日、胃ガン及び転移した肝臓ガンで死去、64歳。未完作に『上海の蛍』(残りは一作のみだった)。葬儀等の後の整理は、遺言で竹内好と埴谷雄高に託された。没後間もなく、竹内らにより「増補版 全集」(筑摩書房)が刊行された。
泰淳の残した2000点以上の資料は、娘の花により2005年に日本近代文学館に寄贈された。資料の中には、中国への従軍時の日記「従軍手帖」もあり、泰淳が「個人的発砲」を行なったことが記されていた[3]。なお担当編集者には村松友視・川西政明らがいる。川西は『武田泰淳伝』(講談社、2005年)により 伊藤整文学賞(第17回・評論部門)を受賞した。
大島と言えばやっぱ大島由里子さん@バージン諸島でしょうかねえ・・・(爆wwwwww
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site://tokumei10.blogspot.com 尾道
般若雄高w
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