2016年7月20日水曜日

ダッカ事件 バングラ政府が立命館大学経営学部準教授、モハマド・サイフラ・オジャキを最重要手配

邦人7人が犠牲になった1日夜のダッカの飲食店襲撃テロに関連し、バングラデシュ当局は10人に上る最重要容疑者を手配したが、その中に京都の大学の教師として教鞭を取っていたバングラデシュ人が含まれていたことが判明した。これが事実とすれば、日本にも現実問題としてテロの脅威が忍び寄っていたことになり、政府、警察庁も重大な関心を寄せている。

解雇の立命館準教授か

この情報は19日付の米紙ニューヨーク・タイムズが最初に報じた。その報道などによると、バングラデシュ当局は今月、ダッカの飲食店襲撃に関して、最重要容疑者10人のリストを公表したが、その中に3人の外国居住者が含まれ、うち1人は「京都の大学の経営学部の大学教授」としている。

同紙によると、この人物は「モハマド・サイフラ・オジャキ」容疑者。テロの訓練や過激派組織「イスラム国」(IS)のための新兵徴募の手助けをした容疑で手配されており、バングラデシュ国内の過激派と国外のテロ組織とを結ぶ接点となる役割を担っていたとされる。

オジャキ容疑者はバングラデシュ中部の穏健なヒンズー教徒の家庭に生まれ、奨学金を得て留学し、京都の大学の経営学部で教えるまでになった、という。オジャキ容疑者の父親の話によると、彼は日本に居住している間にヒンズー教徒からイスラム教徒に改宗し、名前も変えた。

父親のジャナルダン・デブナット氏はオジャキの改宗に驚がくし、彼がイスラム過激派の象徴であるあごひげをはやしているのを見て仰天したという。息子がテロのネットワークに関与した疑いがあると聞いて「何が起きているのかまったく分からない」と同紙に嘆いている。

立命館大学の広報課によると、「デブナット・サジャド・チャンドラ」という人物が2015年4月から2016年1月まで、衣笠にある国際関係学部で経営学の准教授を務めていた。しかし、突然大学に出勤しなくなり、連絡もつかなくなった。このため3月に解雇したという。

この准教授は父親と同じ姓であることなどから、オジャキ容疑者と同一人物と見られており、すでに日本から出国しているようだ。同容疑者は大分・別府にある立命館アジア・太平洋大学に2002年10月に留学。06年3月に卒業後、修士、博士課程を終了。2011年4月から助教になった。

准教授は2015年4月から5年間の契約になっており、4年以上も期限を残しての解雇だった。関係者によると、同容疑者は九州の他の大学でも非常勤講師を務め、大手電気メーカーの情報システム本部にも一時的に籍を置いた。

学生らへの影響が懸念

同容疑者の現在の所在などは一切明らかではなく、実際に今回のダッカのテロにどう関与したのかも不明だ。しかし襲撃犯らが当初から日本人ら外国人を狙い、襲撃直後に日本人を殺害していることなどを考えると、同容疑者が長年日本に滞在していた事実は無視できないだろう。むしろ、大きな意味を持ちかねない。

しかも日本でテロが発生する危険性についてはこれまで、国内のイスラム教徒の人数が少ないために過激派の受け皿がなく、イスラム世界と距離的にも遠いことから国内でテロが発生する可能性は小さい、と考えられてきた。

しかし「容疑者が日本に滞在中にイスラム過激主義、それもISの思想に傾倒していたとすれば、これまでの認識を変える必要がある。本人が出国していたとしても、教師であることを考えると、学生や周囲が彼の影響を受けなかったのか、懸念される」(テロ専門家)という見方も出るだろう。

日本にイスラム過激派が滞在していたことは今回が初めてではない。2002年から翌年まで国際テロ組織アルカイダに属していたリオネル・デュモンのケースがある。デュモンはシンガポールから偽造旅券で日本に入国。短期の出入国を繰り返しながら、新潟に潜伏していた。

しかしその存在が明らかになったのは、日本を出国してドイツ当局に逮捕された後だった。デュモンは新潟で中古自動車の輸出などの商売を手がけ、逮捕された後に、仕事仲間や友人らが摘発された。

バングラデシュ当局が手配した10人のリストにはカナダとオーストラリアに居住していた2人も含まれている。特にカナダから2013年に帰国して行方知れずになっているタミン・アハメド・チョウドリ容疑者がダッカ・テロのカギを握る人物と見られている。

捜査当局は、チョウドリがバングラデシュの地元のIS系過激派「ジャマトウル・ムジャヒディン・バングラデシュ」とシリアのISをつなぐ役割を果たし、飲食店を襲撃した実行犯5人の徴募、訓練、武器の調達を仕切り、テロを背後から操ったと見ている。オジャキがチョウドリとともに今回のダッカ・テロに深く関与した可能性も十分ある。

佐々木伸(星槎大学客員教授)

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7347

西園寺ローラさんにげてええ!(爆wwwwwwww






で、


立命館 上田寛 ロシア



1869年西園寺公望私塾立命館を創設した。しかし、京都府庁(太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖された。西園寺の秘書官であった中川小十郎は、西園寺の意志を継ぎ、1900年に向学心を持つ勤労青年のために勉学の機会を与えるとともに京都帝国大学教員の経済支援を兼ねた夜間学校として京都法政学校を設立し、上京区東三本木丸太町にあった料亭清輝楼(吉田屋の近隣にあった)を仮の校舎とした。
他方、1889年に、京都法学校(きょうとほうがっこう)が、京都府京都市下京区寺町通四条下ル大雲院内に設立されている。これは、法律学および経済学を教授することを目的に設立された私立学校で、校主には司法省学校卒業後、京都始審裁判所に勤務した山崎恵純が就任。この他、名誉員に京都府知事大審院評定官、京都始審裁判所所長、同検事、京都府警部長らが就いた。しかし、その後、入学希望者の増加に対応しきれなくなり、京都法政学校に事実上引き継がれた。山崎恵純は引き続き京都法政学校の教授を務めた。
現在の立命館大学では、京都法政学校が設立された1900年を創立としており、私塾立命館が開設された1869年を立命館の創始としている。

西園寺公望との関係

私塾立命館の閉鎖をたいそう残念に思っていた西園寺公望は、同私塾の復興を誓う。その意志を継いだのが西園寺の秘書官、中川小十郎だった。 自分の意志を継いだ中川に西園寺は協力を惜しまず、自らの政治的人脈を生かし、様々な形での支援を行った。西園寺の庶弟末弘威麿が学園幹事に就任、同じく実弟の住友財閥当主徳大寺隆麿住友友純)は大口の寄付を行った。また西園寺家家紋である「左三つ巴」の旗を立命館学園が使用することを許可しており実際に使用されていた。また大学昇格に必要な書籍を寄付するなど、ハードウェア的な支援も行っている。また、愛新覚羅溥儀は立命館に巨額の寄付を行っている(衣笠キャンパスは溥儀の寄付により作られた)が、これも西園寺の人脈によるものである。
中川が「立命館」の名称を用いる事を西園寺に申し出た際には『立命館』の名称と精神の継承(立命館の再興)を大層喜び『立命館と由緒』の大扁額を与 えた。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学の事を述べており、彼の作った立命館が再興し、受け継がれている 事を喜んだ(原文:「明治ノ初メニ於イテ余ガ建設セル立命館ノ名称ト精神ヲ継承セル貴学ガ益々発展シテ国家ノ進運ニ貢献スルコト大ナルベキヲ祈ル」(1935年(昭和10年))[8]
西園寺は専門学校令によって創立した京都法政大学が大学令による大学への昇格条件を満たすために多数の書籍を寄付している。これらの書籍は、現在も「西園寺文庫」として保存されている。なお、一回目の寄贈は1925年5月に行われ、英仏書187冊[9]であった。その後、1930年10月16日和漢書約300冊[9]1938年6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊[9]の寄贈が為された。この和綴書には、宮中儀式、有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重文書が含まれている[9]。そして1940年5月に行われた最後の寄贈は和漢書6,671冊にもおよび、西園寺が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれている[9]のが特徴である。
1932年、83歳になった西園寺は人生最後の京都訪問を行う。その際、立命館大学広小路校地を訪問先に選んだ。9月22日の朝、京都市上京区にあ る立命館大学広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾ってある自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらく目を留めたといわれている[10]

西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はないものの、こうした状況から西園寺が没した1940年に財団法人立命館は、西園寺を「学祖」と取り決めた。そのため、西園寺家との関係は、学校法人立命館のみならず、立命館大学とも続いており、大学の行事に西園寺家の人々が出席している。








、、、(爆wwwwwwwwwww

10 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

Resident Evil: The Final Chapter Cobalt

匿名 さんのコメント...

黒龍会

匿名 さんのコメント...

http://researchmap.jp/read0156151/

匿名 さんのコメント...

日本人の妻や子どもと欧州に出国して行方不明
DEBNATH Sajit Chandra (APM, バングラデシュ) 総長賞授与者

てんこもり野郎 さんのコメント...

2016年7月21日木曜日
モハマド・サイフラ・オジャキことデブナット・サジト・チャンドラことモハマド尾崎さん
http://tokumei10.blogspot.com/2016/07/blog-post_982.html

匿名 さんのコメント...

そうか。西園寺ローラのぶっ飛び具合は平野レミの傍若無人振りと同様その筋の方だったからなんですね。いい加減にしなさいと。

てんこもり野郎 さんのコメント...

中田考のお仲間、日本国籍のデブナット・サジト・チャンドラが去年からISIS監視サイトにマークされてた件
http://tokumei10.blogspot.com/2016/07/isis.html

匿名 さんのコメント...

故郷の家族と音信不通となり行方不明になっている何人もの方々の一部が過激思想の影響を受け、次の行動に備えて待機中であろうという懸念が報じられている。
常に警戒態勢のアラームが鳴りっぱなしの時代に既に突入してしまっている現実を、生きていかざるを得ない。

或る視点のみに執着した観点で喧伝される「『親日国』神話」や「親日感情」を信奉し期待を寄せることは極めて危険。

現実離れした政策、投票行動、あなた次第。

匿名 さんのコメント...

広瀬勝貞 立命館 咸宜園

正直流(日田商家)
先祖は、甲斐国武田氏重臣の板垣氏または山県氏家臣、広瀬郷左衛門尉景房の弟広瀬将監正直とされる。初代広瀬五左衛門貞昌は、1673年(延宝元年)に博多から天領であった豊後国日田(現在の大分県日田市)に移り、掛屋「堺屋」を開業。後に屋号を「博多屋」とした。

咸宜園を開いた淡窓をはじめ、その子孫に、儒学者、俳人が多く出た。月化・桃秋(三郎右衛門の号)・淡窓・秋子・南陔(久兵衛の号)・旭荘・青邨・林外は、広瀬八賢と称される。また、淡窓のあとを継いだ旭荘・青邨・林外は、三広と呼ばれる。

近現代においては、元郵政相の広瀬正雄や富士紡績社長となった広瀬貞雄、大分県知事の広瀬勝貞など政界、経済界に名を残す。

広瀬正雄 - 第10代当主。元日田市長、元衆議院議員、元郵政大臣。
広瀬貞雄 - 第11代当主。富士紡績社長。
広瀬道貞 - テレビ朝日顧問、日本民間放送連盟(民放連)会長。
広瀬勝貞 - 大分県知事、元経済産業事務次官。
広瀬興貞 - 興銀証券常務。

匿名 さんのコメント...

ダッカ飲食店襲撃、英国籍の容疑者を逮捕 私立大講師
AFPBB News-2 時間前