相模原の障害者施設殺傷事件で、元施設職員植松聖容疑者(26)が神奈川県警津久井署に出頭する直前、コンビニに立ち寄り、手や腕に付いた血を洗い流していたことが31日、捜査関係者への取材で分かった。津久井署捜査本部は、現場から立ち去った後の足取りを詳しく調べる。
捜査関係者によると、植松容疑者は津久井署へ車で向かう途中、コンビニに寄ってトイレを利用。手や腕に付着した血を洗った。さらに、洋菓子類を購入。支払いに使用した千円札にも血が付いていた。植松容疑者の車内には食べかけの洋菓子が残されていた。
http://jp.reuters.com/article/idJP2016073101001406?il=0
神奈川県相模原市の障害者施設で19人が殺害された事件で、逮捕された男が出頭する直前にコンビニエンスストアに立ち寄っていたことが分かりました。
植松聖容疑者(26)は2月まで勤めていた障害者施設に侵入し、刃物を持って入所者を次々に襲ったとみられています。植松容疑者は犯行後まもなく、警察署に車で出頭していますが、その後の捜査関係者への取材で、出頭前に警察署近くのコンビニエンスストアに立ち寄っていたことが分かりました。血の付いた手をトイレで洗うなどした可能性があります。また、事件当時、施設にいた警備員が当時の状況について取材に応じました。
事件当時、施設にいた警備員:「(Q.侵入は気が付いた?)分からない。全然、分からなかった。(仮眠室が)全然遠いから」「(Q.事件を知ったのはいつ?)救急車が来た時」「(Q.植松容疑者も知らない?)分からない」
この警備員によりますと、植松容疑者については特に警戒するよう施設から言われることはなかったということです。警察は31日も現場検証を続けていて、施設内での犯行経路など当時の詳しい状況を調べています。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000080333.html
→セブンイレブン
→Zebra (しまうま) Croissant
クロワッサン(仏: croissant)は、三日月形に作るフランス発祥のパン。種類にもよるがバターを多く使っており、サクサクした食感と甘みが特徴的である。
フランス語で三日月を意味し、形状が名前の由来となっている。フランス語では「croissant」と書き、[krwasɑ̃](クロワッサン[1])、または、[kʁwasɑ̃](コワサン[2])と発音する( 音声 )。あまり普及していないが、日本語で「三日月パン」と呼ばれる場合もある。
中国語の普通話及びそれの基になった北京語では「羊角麺包」(羊角麵包 / 羊角面包、ヤンジャオミエンバオ、拼音: yángjiǎomiànbāo)と書き、ヒツジの角の形に似ている事が由来。なお、広東語ではウシの角の形のパンという意味の「牛角包」(牛角包 / 牛角包、アウコッバーウ、イェール式: ngau4gok3baau1)と呼ばれ、また逆に北京語系の方言でも「牛角麺包」(牛角麵包 / 牛角面包、ニュウジャオミエンバオ、拼音: niújiǎomiànbāoと呼ぶことがある。
スイスのドイツ語使用地域ではGipfel(i)(ギプフェルないしギップェルもしくはギッフェル、「頂上」の意)と呼ばれており、日本でもこれに由来する「ギッフェリ」という名称が使われることがある(例:ナチュラルローソン)。
イタリアではコルネット cornettoと呼ばれている(複数形はコルネッティ cornetti)。中に生クリームやカスタードクリーム、ジャムなどの詰め物をしたものも多く見られる。コルネットとはもともと金管楽器の名称で、現在 の楽器はトランペットに似た形状だが、語源としてはホルン(コルノ corno)に指小形のettoがついたものであり、ここでの用法ではパンの広がった形をホルンの傘に見立てている。
1683年にトルコ軍の包囲を打ち破ったウィーンで、トルコの国旗の三日月になぞらえたパン、クロワッサンを焼き上げたという伝承がある(村上信夫の『おそうざいフランス料理』にも書かれている)が、これは事実に反する。
Oxford Companion to Foodの編集者だったアラン・デイヴィッドソンによると、20世紀初頭のフランスの料理本にクロワッサンの調理法が現れたが、それ以前のレシピは一切発見されていないということである。前記の伝承が広まったのは1938年にLarousse Gastronomiqueの初版本を出版したアルフレッド・ゴットシャルクによるところが大きいという。この本の中ではこの伝承に加え、1686年にオーストリアハプスブルク家がブダペストをトルコ軍から奪回した時に作られたのではないかという伝承を紹介している。
カプチーノの語源についても同じような伝承があり、マリー・アントワネットがオーストリアから嫁いだ時に、その製法がフランスに伝えられた逸話がある(カプチーノの語源は正しくはイタリアのカプチン修道会の制服の色に基づく)。その頃ヨーロッパ中で最も権力のあったハプスブルク家のオーストリア宮廷では、全ての分野でヨーロッパで一番の職人を雇っていた。パン職人は、その頃最も評判の良かったデンマークのパン職人が担当していた。マリー・アントワネットがフランスに嫁いだ時、デンマークのパン職人も同行し、デニッシュ・ペストリーの生地で作ったのが最初のクロワッサンだとされている。
日本語WIKIに無い重要な箇所・・・
Stories of how the Kipferl — and so, ultimately, the croissant — was created are widespread and persistent culinary legends, going back to the 19th century.[12] However, there are no contemporary sources for any of these stories, and an aristocratic writer, writing in 1799, does not mention the Kipferl in a long and extensive list of breakfast foods.[13]The legends include tales that it was invented in Europe to celebrate the defeat of the Umayyad forces by the Franks at the Battle of Tours in 732, with the shape representing the Islamic crescent;[14] that it was invented in Buda; or, according to other sources, in Vienna in 1683 to celebrate the defeat of the Ottomans by Christian forces in the siege of the city, as a reference to the crescents on the Ottoman flags, when bakers staying up all night heard the tunneling operation and gave the alarm.[12]The above-mentioned Alan Davidson proposed that the Islamic origin story originated with 20th century writer Alfred Gottschalk, who gave two versions, one in the Larousse Gastronomique and the other in his History of Food and Gastronomy:[15]According to one of a group of similar legends, which vary only in detail, a baker of the 17th century, working through the night at a time when his city (either Vienna in 1683 or Budapest in 1686) was under siege by the Turks, heard faint underground rumbling sounds which, on investigation, proved to be caused by a Turkish attempt to invade the city by tunnelling under the walls. The tunnel was blown up. The baker asked no reward other than the exclusive right to bake crescent-shaped pastries commemorating the incident, the crescent being the sympol of Islam. He was duly rewarded in this way, and the croissant was born. The story seems to owe its origin, or at least its wide diffusion, to Alfred Gottschalk, who wrote about the croissant for the first edition [1938] of the Larousse Gastronomique and there gave the legend in the Turkish attack on Budapest in 1686 version; but on the history of food, opted for the 'siege of Vienna in 1683' version.[16]— Alan Davidson, Oxford Companion to FoodThis has led to croissants being banned by some Islamic fundamentalists.[17]
en.wikipedia.org/wiki/Croissant
トルコ・・・(爆wwwwwwwww
7 件のコメント:
沖縄 ゼブラパン
>クロワッサン
00'年代からマスゴミの
クロワッサン推し凄かった
個人的に山型食パン
ベーグルwばかりで
で
何故セブンイレブン
店員は警察連絡なしなの
血の臭い嗅ぎ慣れない筈
鼻閉でも気付くかと思ふ
そもそも視覚的にもオカシイよね
アメリカのクロワッサン 実は・・・Made in Japan
http://www.tv-tokyo.co.jp/zipangu/backnumber/20131021/
croissant day
ムエタイ
相模原45人殺傷事件「容疑者の母」は血まみれホラー漫画家(事件・犯罪) - 女性自身[光文社女性週刊誌]
http://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/crime/24921
投稿日: 2016年08月03日 06:00 JST
(殺害された19人のうち17人は頸動脈などを切られての失血死だった)
「聖(さとし)くんと会ったのはだいぶん前です。母親とはときどき連絡を取っていましたが……。皆さまにいろいろご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません」
九州に住む植松聖容疑者(26)の親族は、涙声でそう話した。
19人が刺殺され26人が重軽傷を負った、知的障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件。犠牲者の多くはベッドに横たわったまま殺害され、植松容疑者の行動は、足跡の血痕を辿ることでわかるほどだった。
1990年に東京都日野市で生まれた植松容疑者。小学校教師の父親と漫画家だった母親は大学の同級生。植松容疑者の両親の同級生はこう語る。
「2人は大学を出てまもなく結婚しました。すぐ子供ができて、若くして一軒家を建てました。僕らの間では、うらやましい存在。事件を知って、まさかあの2人の子供じゃないか、違ってほしいと思っていたんですけど……」
母親が発表していたと思われる漫画作品を、本誌は入手した。1990年代に発行された月刊ホラー漫画雑誌に掲載されたもので、読者から募集した恐怖体験を漫画にした作品だ。
ある少女が母親の実家に泊まると、枕元に女性が現われる。「真っ赤なワンピースを着た血まみれの女の人が……」というフレーズとともに、肩や額から血を流している女性が、ニヤッと笑いながら少女を見つめ、次の瞬間フッと消え去ってしまう……という内容だ。
「お母さんは少女向けの作品をおもに描いていて、自宅に仕事部屋があり、編集者が来ていたようです。また、お父さんが乗る車は、ナンバーがさとくん(植松容疑者の愛称)にちなんだ番号になっていました。両親に溺愛されているんだなと思いました」
植松容疑者の同級生はそう語る。
相模原市内の公立小中学校を卒業した植松容疑者は、都内の私立高校を経て、教員を目指し大学へ進学。幼少時から人と違うことをするのが好きだったというが、このころからその性質がエスカレートしていく。
「大学に入って刺青を入れたんです。『やめろ』と言っても、本人は『(自分を)強く見せたいから』と、忠告を聞かなくて。次第に挙動不審になっていきました。目を合わせて話さないし、落ち着きがないんです。これは危険ドラッグや薬物でもやっているんじゃないか、と思いました」(同前)
植松容疑者は大学を卒業し、福祉施設での非常勤職員を経て2013年4月、事件を起こした「津久井やまゆり園」で常勤職員として働きだした。
「テレビでは、刺青を入れたころから徐々におかしくなったといわれていますが、そうではなく、急におかしくなったんです。3月に(措置入院から)退院したあとは、別人みたいでした」(別の同級生)
7月29日、植松容疑者の自宅からは大麻が見つかった。違法薬物を常用していた疑いがあるが、犯行が薬物の影響だったかは判明していない。
(週刊FLASH 2016年8月16、23日号)
障害者殺傷事件で現場の施設公開 Thu, 06 Jul 2017 17:49:06 +0900
去年7月、相模原市の知的障害者施設で、入所者19人が殺害され、27人が重軽傷を負った事件からまもなく1年となるのを前に、現場となった施設が初めて報道陣に公開され、施設には、衣服をしまっていたタンスや、飾りつけが今も残されていて、犠牲になった人たちの暮らしの名残をかいま見ることができました。去年7月26日、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者が次々に刃物で刺され、19人が殺害され、27人が重軽傷を負った事件では、元職員の植松聖被告(27)が逮捕され、ことし2月、殺人などの罪で起訴されています。事件からまもなく1年となるのを前に、6日、現場となった施設が初めて報道陣に公開されました。施設は2階建てで、男女に分かれて生活する「ホーム」と呼ばれる8つの区画があり、当時、施設には150人あまりが暮らしていましたが、事件のあと全員が別の施設などに移り、現在は閉鎖された状態になっています。これまでの調べで、植松被告は、東棟1階の部屋の窓をハンマーで割って侵入したあと、職員を結束バンドで縛って動けなくするなどして、施設内を移動しながら、次々に入所者を襲っていったということです。現在、部屋や廊下は清掃が行われ、事件の痕跡は残っていないほか、ベッドや家具、それに入所者の荷物なども片づけられていました。それでも部屋に備え付けられたタンスには、「トレーナー」や「シャツ」などと書かれたシールが貼られたままのものもあり、入所者の洋服などがしまわれていたとみられます。また、廊下の壁には、職員がつけたとみられるハート型の飾りつけの一部などが今も残っていて、犠牲になった人たちの暮らしの名残をかいま見ることができました。植松被告は、現在、拘置所に勾留されていて、平成に入って最悪の犠牲となった事件は、裁判員裁判に向けて準備が進められています。植松聖被告(27)は、去年7月26日の午前1時半すぎ、施設近くに車で乗りつけました。車からバッグを取り出し、歩いて施設に向かう様子が近くに設置されていた防犯カメラに残っていました。捜査関係者への取材や起訴状などによりますと、植松被告は、施設の東側に回り込み、鍵のかかっていなかった通用口の門を開けて、駐車場を横切り、建物に近づいたということです。施設は2階建てで、男女に分かれて生活する「ホーム」と呼ばれる8つの区画があり、当時、入所者150人あまりが暮らしていました。植松被告が最初に侵入したのは、東棟1階にある女性ばかりが暮らしていた「はなホーム」です。部屋の窓ガラスをハンマーで割って侵入し、部屋にいた入所者の女性が殺害されました。植松被告は、その後、しばらく隠れていましたが、夜勤の職員が来たところ、刃物を持って「騒いだら殺す」などと脅したといいます。そして結束バンドで職員の手首を縛って連れ回し、入所者が寝ている部屋の前で意思の疎通ができる入所者かどうか確認し、次々に襲いかかったということです。このホームでは、あわせて5人が殺害されました。さらに、身動きができないように職員を廊下の手すりに縛りつけ、ホームごとに区切られているドアを開けるための鍵を奪ったということです。次に隣接する東棟1階の「にじホーム」に侵入します。ここでも別の職員が拘束され、入所者5人が殺害されました。施設の敷地内に入ってから30分あまり。植松被告は廊下を通って東棟から西棟に移動します。この様子は、設置されていた防犯カメラに写っていました。そして西棟1階の「つばさホーム」に侵入、2人が殺害されました。さらに隣接する「みのりホーム」に移動します。ここでも職員の男性に刃物を突きつけ、「早くしろ、こっちに来い」などと脅し、結束バンドで縛って連れ回しました。一命はとりとめましたが、7人が襲われました。そして西棟2階にある「いぶきホーム」に階段を使って移動しました。ここでは4人が殺害されました。そして、6つの目の「すばるホーム」では、3人が殺害されました。しかし、ここでは、職員が部屋に逃げ込んだことで、その後の被害を免れました。植松被告は、職員が逃げ込んだ部屋のドアを開けようとしましたが開けられませんでした。「警察に通報されてしまうと思った」と供述している植松被告は、残り2つのホームへの侵入をあきらめ、施設正面にある管理棟の通用口から逃走したとみられています。植松被告は、1時間あまりの間に入所者と職員あわせて46人を次々に襲い、19人が殺害され、27人が重軽傷を負いました。今回の事件で負傷はしなかったものの、事件の影響で生活が一変し、不安定な状態が続いている入所者もいます。当時、西棟の1階、「みのりホーム」にいた中塚憲仁さん(47)です。このホームでは7人が襲われましたが、中塚さんの部屋は侵入されず、被害を免れました。父親の清さん(75)は、当時、連絡を受けて、施設に駆けつけ、施設内の食堂に避難していた息子に会うことができました。清さんは、そのときの混乱した施設の様子は今も忘れられないといいます。清さんは「みんな家族の安否を確認していて、泣いている親もいれば、パニック状態になっている親もいて、大変な状況でした」と話していました。事件のあと中塚さんはほかの部屋に移る場所がなく、しばらくの間、元の部屋で生活していました。今は別の施設に移りましたが、父親からみて、息子は今も落ち着かず、不安定な状態が続いていると感じるといいます。清さんは「息子たちはもちろんのこと、親もいろいろなことで大変な思いをしていて、全員が被害者で、決して許せないです。もう元に戻すことはできませんが、早く以前のようにみんなで暮らせる場所を作ってほしいです」と話していました。入所者の中には、事件で大きな傷を負い、今も苦しむ人もいます。当時、西棟の2階「いぶきホーム」にいた、尾野一矢さん(44)です。尾野さんは、同じ部屋で別の入所者と暮らしていたところ、2人とも襲われ、尾野さんは首や腹などを切られて一時、意識不明となりました。同じ部屋の男性は亡くなりました。尾野さんは、その後、意識を回復し、今は別の施設で生活しています。尾野さんの両親は、毎週、手作りの昼食を持って施設を訪れ、息子の回復を見守っています。しかし、首や手には今も傷跡が残っていて、5日もてんかんの発作を起こしました。父親の剛志さん(73)と、母親のチキ子さん(75)は、みずからも高齢のため、事件のあと体力が衰え、精神的にも不安定な息子の状況に不安が消えないといいます。父親の剛志さんは、「息子の心の中に事件の何かが残っているような感じがして切ないです。事件のことを考えると、本当につらいです」と話していました。また、母親のチキ子さんは、事件からまもなく1年となることについて、「ずっと息子がどうしたらよくなってくれるのか、そればかり考えてきました。まだ、まったく安心できないです」と話していました。
20170706/4646611.html
コメントを投稿