2016年3月21日月曜日

薩摩とエスペラント

釜石線トンネルで壁の一部が崩落 けが人なし
2016/3/21 1:34

岩手県釜石市のJR釜石線のトンネルで20日、壁の一部が崩落しているのが見つかった。列車の衝突やけが人などの被害はなかったが、安全確認のため約5時間、運転を見合わせ、上下線5本が全部または一部区間で運休した。

JR東日本盛岡支社によると、崩落があったのは、釜石線上有住―陸中大橋間の第4唄貝トンネル。同日午前8時半ごろにトンネルを通過した列車の運転士が線路脇の落石を発見し、盛岡支社に報告した。トンネル内を確認すると、作業用の退避スペースの壁が高さ約2メートル、幅約1.5メートルにわたって崩れ、線路脇に最大60センチ程度の落石があった。

トンネルは1950年に完成し、単線で全長約700メートル。昨年7月の点検時には異常はなかったという。〔共同〕
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO98685360R20C16A3000000/









二代目 田中 長兵衛(たなか ちょうべえ、安政5年10月20日1858年11月25日) - 大正13年(1924年3月9日)は、明治から大正にかけて、主に鉄鋼業の分野で活躍した実業家である。日本で初めて安定した稼動が見込める銑鋼一貫製鉄所を造った。[1]
1858年11月25日(安政5年10月20日)、江戸京橋北紺屋町の大根河岸で薩摩藩兵糧方として金物及び米穀商「鐵屋」を営む初代田中長兵衛(1834-1901)とその妻みなの長男として生まれ、安太郎と名付けられた。
明治維新の後、陸海軍御用達の商人として大きく財を成した父の元で若年の頃から商業に従事し、その一方で京浜間を往復しては英語、数学などを修めた。1879年(明治12年)には妻との間に長男、長一郎1881年(明治14年)11月19日-1969年(昭和44年)12月30日)が誕生している。

1884年(明治17年)、明治政府からの官営釜石製鉄所払い下げ打診の際には現地を視察して製鉄業の復興を志し、その頃ヨーロッパから帰国したばかりの海軍技術官・大河平才蔵や向井哲吉(後の八幡製鐵所技監)について製鉄の理論と実際を学んだ。さらに古来よりのたたら製鉄で日本の主要な産鉄地域である山陰、山陽など中国地方にも視察に赴き、同じく熱心な推進論者であった妹婿の横山久太郎(1856-1922)と共に釜石での挑戦を父に進言した。 その甲斐あってか、父・初代長兵衛よりついに製鉄業挑戦の許可が下る。現地の総責任者を任された横山は、雇い入れた技術者たちと共に2年近くも苦闘した後、度重なる失敗を乗り越えて1886年(明治19年)10月16日、49回目の挑戦にしてついに高炉での銑鉄生産に成功した。1887年には政府より釜石鉱山の設備一式の払い下げを受ける。
1896年(明治29年)には前年より日本の統治が始まった台湾北部で金瓜石鉱山の採掘権を取得。現地で「田中組」を組織して採掘に当たる。1901年(明治34年)に父が死去した後は社長職と共に二代目「田中長兵衛」の名前を継ぎ、1902年(明治35年)に鉄管の製造工場の立ち上げ、1903年(明治36年)には釜石製鉄所に製鋼工場を起こして銑鋼一貫体制を成すなど新しい事業にも意欲的に挑戦していった。

田中 長兵衛(たなか ちょうべい、天保5年(1834年) - 明治34年(1901年11月7日)は、幕末・明治期の実業家。日本で初めて洋式の民間製鉄所を設立するなど、日本近代製鉄の礎を築いたとされる。

天保5年(1834年遠江国(今の静岡県)の生まれ。[1]若くして江戸へ出た長兵衛は、親戚筋である鉄・銅物問屋の「鉄屋」喜兵衛(よしべえ 1819年 - )の元で修行を積む。安政の頃(安政年間 1854年 - 1859年)には「鉄屋」長兵衛として独立、麻布板倉で金物商を始めて薩摩藩島津家の御用達となっている。[2] 薩摩藩兵糧方となった長兵衛は京橋北紺屋町の大根河岸に店を移転し、米穀類の商いにも手を広げていった。安政5年(1858年)には妻みな(旧姓吉田)との間に、後に二代目長兵衛の名を継ぐことになる長男安太郎が生まれ、その後も合わせて計二男三女を授かる。

維新後の明治3年からは平民苗字許可令により「田中」の苗字を名乗るも屋号は引き続き「鉄屋」とし、西郷隆盛や伊集院兼常、後に第6代内閣総理大臣となる松方正義ら旧薩摩藩士との人脈を生かし、陸海軍御用達商人として主に造船用の鉄材や食糧を調達することで大きな財を成した。同時代の侠客として知られる清水の次郎長とも交友があったと伝わる。







、、、(爆wwwwwwwwwwwww



3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

http://isuca.net/

wwwwwwwwwwwwwwwww

匿名 さんのコメント...

>エスペラント 別件

新渡戸博士 原田健  藤沢親雄

今度の仏国旅行も全く休養の為で、聞く所によれば博士は最近非常に仏国ニューオルレアンスの女傑ジアンダークの崇拝者となり、公務の余暇さえあれば、之が史実の研究に力を注いで居る由である。今度休養期間を利用し殊に自動車でニューオルレアンス附近一帯の旅行を企てたのも、広く実地を踏査して、ジアンダークに関する大小史料を蒐集する為であるらしい。固より夫人同伴である。何れ博士の事だから近く研究の結果を公表するであろうが、目下連盟本部には博士の外に二名の日本人事務員が居る。独りは外務事務官の原田健君で、籍を国際事務局に置き、博士の秘書役を勤め、終始博士を輔けて、専ら連盟事務に関する日本人側との交渉又は内外折衝の任に当っている。前同志社大学総長原田助氏の長男で、英語は勿論仏語にも頗る堪能で、博士には欠く可らざる重要人物である。又一人は同じく外務事務官の藤沢親雄君で、籍を情報部に置き、各国新聞記者との折衝、連盟趣旨の宣伝、書類の分布を始め、国際連盟に対する各国輿論の反映乃至内外通信連絡事務を取扱う。両君共に非常に繁忙を極めて居る。藤沢氏亦英仏語は固よりエスペラントに堪能で、同人から大変重宝がられて居る。確に部内の一異彩である。

匿名 さんのコメント...

以下激しくどうでもいいハナシで
>藤沢親雄 契丹古伝
ニセ書
1905年 明治38年 浜名寛祐、広部精 「契丹古伝」
1926年 大正15年 『日韓正宗溯源』出版
    ~太古に日孫(神祖)が鶏に乗って長白山に降臨 中国五原に広がり分拠・・・云々

>浜名寛祐 鉄道利権
1903年 明治36年  長白山 間島問題
1916年 大正 5年  11月10日に間島地域と会寧在住の日本人により「間島軽便鉄道建設期成会」を結成
1918年 大正7年  3月16日に「天図軽便鉄路」が誕生
(浜名寛祐飯田延太郎氏等が日本側を代表せる日支合弁事業の間島天寶銅山会社にては過般来天寶銅山採鉄物搬出並に間島開発の目的を以て軽便鉄道敷設の計画)
 南満洲太興社長・飯田延太郎