2016年2月12日金曜日

山田賢司衆議院議員の元秘書が練炭自殺

衆院議員の元男性秘書 練炭自殺か 西宮の路上
2016/2/12 13:26

11日午前11時15分ごろ、兵庫県西宮市久保町の路上で、駐車中の乗用車から煙が出ているのを通行人男性(63)が見つけ、110番した。

西宮署の調べでは、後部座席にしちりんが置かれ、運転席で男性が死亡していた。外傷はなく、練炭自殺を図った可能性が高いという。
遺体の損傷が激しく、同署は解剖を行い、人定の特定を急ぐ。

捜査関係者によると、車内に残っていた免許証や、免許証の名義人が知人に送信したメールなどから、兵庫7区(西宮、芦屋市)選出の山田賢司衆議院議員の元秘書の男性(49)と見られるという。10日午後6時半ごろから行方が分からなくなり、家族が同署に相談していた。

http://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/201602/0008799258.shtml








山田 賢司(やまだ けんじ、1966年4月20日 - )は、日本政治家自由民主党所属の衆議院議員(2期)。
大阪府出身。1985年米国インディアナ州ノースビュー高校卒業、1986年大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎卒業、1990年神戸大学法学部を卒業。同年、住友銀行に入行し、通商産業省に出向。2006年よりSG信託銀行に勤務しつつ、芦屋・西宮を中心として子供向けボランティア活動に従事[4]2010年に芦屋キワニスクラブ会長に就任[5]
2012年第46回衆議院議員総選挙において兵庫7区から自民党公認で出馬し、民主党前職の石井登志郎らを破り初当選[3]2014年第47回衆議院議員総選挙において兵庫7区から再選。自由民主党所属議員による「文化芸術懇話会」の結成に参画しており、2015年6月25日の会合にも出席していた[6]







ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュMichel Jules Marie Léon Roches1809年9月27日 - 1900年6月23日)は、フランス外交官。駐日公使幕末期の江戸幕府を支援した。
フランスのグルノーブル出身。1828年グルノーブル大学に入学するがわずか半年で退学し、アフリカアルジェリアに派遣されるフランスの遠征軍に参加し、アルジェリア侵攻以来フランス軍に対する抵抗運動を行っていたアブド・アルカーディルに対して戦闘を停止するよう交渉した。ロッシュはフランス軍とアル=カーディルの二重スパイを務めていたといわれている[1]。 その後、父の命でフランスに呼び戻され、アラビア語の通訳官となる。ロッシュはそのため、アラビア語に堪能となり、アフリカ諸国で総領事を務めることとなった。特に1860年代初頭に領事を務めたサドク・ベイ英語版治下のフサイン朝英語版チュニス君侯国英語版では、ハイルディーン・パシャにより進んでいたイスラーム世界、及びアフリカ世界初となる憲法制定運動などの近代化改革の助言者となった。

駐日フランス公使

1863年6月7日、ロッシュは駐日公使に任ぜられた。翌1864年4月27日(元治元年3月22日)、初代駐日公使であったドゥシェーヌ・ド・ベルクールが、幕府にロッシュの着任を報告している。5月21日に幕府に信任状を提出した。ロッシュはアラビア語には堪能であったが、日本語には疎かったため、元箱館の宣教師で、デュシェーヌ・ド・ベルクールの通訳を務めていたメルメ・カションを公使館の通訳としている。1866年(慶応2年)末にカションが帰国した後はフランス公使館に通訳はおらず、塩田三郎ら幕臣が通訳を務めた。これは多数の通訳官を有していた英国公使館とは対照的であり、結果、反幕府勢力に関する情報収集能力に欠けることとなった。
ロッシュの最初の仕事は、前年から外国船が航行不能となっている下関問題の解決であった。ロッシュは英国公使ラザフォード・オールコック、米国公使ロバート・プルイン、オランダ領事のディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックと 共同で、幕府に下関通行および横浜鎖港に関する覚書を作成、5月30日(4月25日)にこれを幕府に提出した。7月22日(6月19日)、四カ国代表は下 関攻撃の共同協定に合意。8月28日および29日(7月27日および28日)、連合艦隊は横浜を出航、下関に向かった。9月5日(8月5日)、四カ国連合 艦隊は下関の攻撃を開始、戦闘は2日で終結し、9月18日(8月18日)には講和が成立した。この時点では、先任のベルクールと同様、英国との協調路線を 取っていた。
1864年12月8日(元治元年11月10日)、ロッシュは幕府からの製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼された。このことがきっかけとなり、ロッシュは幕府寄りの立場を取るようになる。また、新任の英国公使ハリー・パークスへの対抗意識もあり[2]、内政不干渉を建前とする英国とは異なり、積極的に幕府を支援していく。主な政策は以下の通りである。
さらに、徳川慶喜が将軍となると幕政改革の構想を建言し幕府中心の統一政権確立に努めた(慶応の改革として実現する)。ロッシュの幕府への極度の肩入れは、フランス本国の意向を無視したものとなり、最後は「個人外交」の様相を呈してきたため、フランス外務省はロッシュに帰国命令を出した。が、これが届いたときにはすでに幕府は崩壊していた。
1868年1月1日(慶応3年12月7日)に予定された兵庫開港を見守るため、各国外交団は前年12月から大坂に滞在していた。1月6日(12月12日)、京都での政争に敗れた慶喜は大坂へ下った[3]。 1月8日(12月14日)、ロッシュは慶喜との会見の約束をとったが、これを知ったパークスが強引に割り込んだ。ここで慶喜は両公使に大政奉還以降の経緯を述べ、また両公使の意見を求めた。その後も情勢は急激に動き、 1868年1月27日-30日(慶応4年1月3日-6日)に発生した鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗北、徳川慶喜は江戸へ脱出した。幕府軍の敗北によりロッシュは外交団の中で孤立する。ロッシュは江戸に戻り[4]、2月12日(1月19日)、19日、20日に江戸城に登城、20日の謁見には着任したばかりのフランス極東艦隊司令官オイエ(Marie Gustave Hector Ohier)提督を伴い、慶喜に再起を促したが慶喜はこれを拒否した。

その後ロッシュは兵庫へ戻り、他国の外交団と共同歩調をとり[5]、明治政府に対して行くことになる。神戸事件堺事件キリスト教徒の保護など解決すべき事件は多かった。3月23日(2月30日)には明治天皇に謁見した。しかし、まもなくロッシュは公使を罷免され、1868年6月23日(慶応4年5月4日)に日本を離れて帰国の途についた。彼の後任にはマキシミリアン・ウートレーが就任した。


汚腐乱巣ですな。(爆wwwwwwwwww

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

平成28年=昭和91年=大正105年=明治149年

匿名 さんのコメント...

『実名告白 元公設第一秘書が刑事告訴「私は自民党代議士に給料をピンハネされ続けた」
逮捕の可能性も 山田賢司氏

証拠はメールに残っている
足元がグラついてきた自民党に、今度は「カネ」のスキャンダルだ。疑惑の主は、兵庫7区選出の山田賢司衆院議員(当選2回)。
昨年の9月まで山田氏の公設第一秘書を務めていた野田哲範氏が、実名で告白する。』

http://wgen.kodansha.ne.jp/archives/24539/

匿名 さんのコメント...

山田賢司 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/・・・/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%B3%A2・・・
>秘書給与ピンはね疑惑
>2015年、山田の公設秘書を勤めていた男性が、実名で秘書給与を毎月10万円事務所に戻させられていたことを告発した[11]。
>その後実名告発したその秘書は西宮市内の路上の車内で練炭自殺を図り死亡した[12]。

ミネ さんのコメント...

パシャとかロシュとかホント汚腐乱巣すねw