2016年2月7日日曜日

光明星4号



ミサイル5つに分離 洋上に落下物 破壊措置せず
2月7日 10時17分
政府は、北朝鮮の事実上の長距離弾道ミサイルについて、情報の総括として、「午前9時31分ごろ、北朝鮮の西岸から南に向かって、計1発の飛翔体が発射されたことを確認した。飛翔体は5つに分離し、1つは、9時37分ごろ、朝鮮半島の西、およそ150キロの黄海上に落下したものと推定される。もう2つは、9時39分ごろ、朝鮮半島の南西、およそ250キロの東シナ海上に落下したものと推定される。もう1つは、9時41分ごろ、沖縄県上空を通過し、9時45分ごろ、日本の南、およそ2000キロの予告落下区域外の太平洋上に落下したものと推定される。もう1つは、9時39分ごろ、沖縄県上空を通過し、南方向へ飛翔を継続した。破壊措置の実施はない」と発表しました。政府は「特段のことがない限り、これで情報伝達を終了する」と発表しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160207/k10010400801000.html

光明星광명성、クァン-ミョン-ソン)は北朝鮮人工衛星のシリーズで、名称は金日成が作詩したとされる漢詩の一節[注 1]に由来している。北朝鮮は、これまで1号、2号、3号2号機の3つの人工衛星の軌道投入に成功したと主張しているが、アメリカでは軌道投入に成功したのは3号2号機のみと分析している。多くの国でそうであるように、北朝鮮の一連の人工衛星の打上げは弾道ミサイルの開発と密接に関連している。


日本の漢詩

漢詩は中国文学の中で生まれたが、中華文明の伝来に伴い日本でも作られるようになった。
751年には日本におけるごく初期の漢詩集として『懐風藻』が編纂された。9世紀には、814年凌雲集818年文華秀麗集827年経国集』と三つの勅撰集が編まれた。その後905年に『古今和歌集』が編纂されるまで、和歌日本文学の中で漢詩と対等な位置を得られなかった。平安時代の物語などでは、「詩」と単に書けば漢詩を意味し、「からうた」という訓がつけられた。その後も漢詩文の影響は強く、『和漢朗詠集』にも数多く作品が収められている白居易は特に好まれた。平安期の代表詩人には、空海島田忠臣菅原道真らがいる。
その後、鎌倉・室町期には、禅林に「五山文学」が花開いた。代表詩人には義堂周信絶海中津があり、一休宗純には『狂雲集』がある。
日本漢詩の頂点は、江戸期から明治初期にかけての時期であり、朱子学を背景に「文人」と呼ばれる詩人たちを多く輩出した。江戸前期の石川丈山元政(日政)らの後、江戸中期には荻生徂徠の門人たちが派手な唐詩風で活躍し、江戸後期には菅茶山らの落ち着いた宋詩風が愛された。また、頼山陽の詩は今日も広く詩吟として愛吟されている。幕末には島津久光伊達宗賢などが名人として知られている。20世紀以降は急速に衰退したが、夏目漱石森鴎外中島敦ら漢学教育を受けた文化人は漢詩をたしなんだ。
現在でも自作の漢詩集を著している陳舜臣等、漢詩創作の愛好家は存在しており、月刊誌大法輪では読者の投稿した漢詩が毎号掲載されている。また、自らは創らないのものの、書道の世界では、漢詩は読むもの・見るものとして基礎的な教養の一部となっている。また、学校教育でも、漢詩にふれることが多い。
ただし、明治期以降に日本で創作された漢詩は中国語で の発音を考慮していないため、韻律が本場中国の基準からすると破格であり(中国語発音で漢詩を吟じると響きがよくない)、漢詩として評価されないものが多 いと言われる。これは、江戸期以前、漢詩を学ぶということは、当然に漢字毎の音韻を学び、漢詩の平仄にあった作詩をすることであったのに対して(中国語音 ではなくとも、日本語音でも、本来の漢詩のリズムを味わうことができるよう、工夫されたものが字音仮名遣いである)、明治期以降の日本の漢文学習では、日常の使用と無関係になった音韻の学習が軽視され、訓読が重視されたことが原因である。しかしながら夏目漱石の漢文は中国語で吟じられても美しいとされ、それを録音したCDが販売された事もある。

。。。(爆wwwwwwwwwww

1 件のコメント:

文法 さんのコメント...

漢文訓読

「日本の漢文訓読は日本独自の発明か、朝鮮に起源を求めうるか」