印インパール近くで地震、100人以上死傷
2016年01月04日 21時56分
【ニューデリー=田尾茂樹】米地質調査所(USGS)によると、インド北東部マニプール州で4日午前4時35分(日本時間同午前8時5分)頃、マグニチュード(M)6・7の地震があった。
地元紙タイムズ・オブ・インディア(電子版)などによると、少なくとも8人が死亡し、約100人が負傷した。バングラデシュでも5人が死亡した。多くの建物に被害が出ており、死者はさらに増える可能性がある。
震源地は隣国ミャンマーとの国境に近い州都インパールの西29キロで、震源の深さは55キロ。同州は旧日本軍が第2次大戦中に攻略を目指して撃退されたインパール作戦で知られる。
http://www.yomiuri.co.jp/world/20160104-OYT1T50078.html
インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。
補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
河辺 正三(かわべ まさかず、1886年12月5日 - 1965年3月2日)は、昭和初期の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。富山県出身。ビルマ方面軍司令官、航空総軍司令官、第1総軍司令官を歴任した。インパール作戦を指揮した第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の上官でもあった。また、河辺虎四郎の兄でもある。陸士卒(19期)、陸大卒(27期)。
牟田口廉也とは盧溝橋事件当 時も部下と上司の関係であった。インパール作戦に際しては「かねてより牟田口が熱意を持って推進してきた作戦なのでぜひやらせてやりたい」と作戦を認可。 その後、敗色濃厚となった1944年(昭和19年)6月に牟田口を訪ねて戦況を確認した際、両者とも作戦の中止を内心考えていた(後に、牟田口は防衛庁防 衛研究所戦史室の取材に「言葉ではなく、私の顔を見て真意を察して欲しかった」と語っている)が、責任を取ることへのおそれからお互いそれを言い出せず、 結果として中止決定が遅れ、損害の拡大につながった。
牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。
晩年
牟田口は戦後、東京都調布市で余生を過ごした。しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1960年(昭和35年)頃まで、敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた[11]。しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡[注 2]を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり[13]、死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた[注 3]。同様の主張は、多くの機会で繰り返された(#主要著述物も参照[注 4][注 5])。国立国会図書館はオーラル・ヒストリーの一環として盧溝橋事件についての証言の録音を牟田口に求め、1963年(昭和38年)4月23日にその録音が実施された。このとき、牟田口は、最初予定のなかったインパール作戦の回想の録音も頼み、1965年(昭和40年)2月18日に実施された[注 6]。
1966年(昭和41年)8月2日、気管支喘息・胆六嚢症・心筋梗塞治療中に脳溢血を併発して死去。兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かった。8月4日に行われた自らの葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた[17]。遺骨は多磨霊園26区1種46側19番に埋葬されたが、墓石は戒名寿光院温誉西岸浄廉居士と記された質素なものとなっている。
、、、(爆wwwwwwwwww
1 件のコメント:
>ウ号作戦
まさにタイトルの烏合の衆!が真っ先に浮かびましたわ(爆www
>牟田口 廉也
無駄口 連夜
歴史学習的に覚えやすい名前!(笑)
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