2015年12月25日金曜日

編集者・エッセイストの伊吹和子さん死去

編集者・エッセイストの伊吹和子さん死去
2015年12月25日16時29分

伊吹和子さん(いぶき・かずこ=編集者、エッセイスト)が16日、急性心不全で死去、86歳。葬儀は近親者で営まれた。

作家の谷崎潤一郎の秘書として「源氏物語」現代語訳の口述筆記などを担当し、その後中央公論社(現・中央公論新社)に入社して主に文芸書の編集に携わった。「われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年」(1994年)で日本エッセイスト・クラブ賞。
http://www.asahi.com/articles/ASHDT4RDBHDTUCVL00P.html

こういふのが分かる人には分かる非常に重要なシグナルだったりするわけですよ。何処の国でも王室とか皇室とか独裁者とかセレブなんてフロントにしか過ぎないわけですから。ホントの支配者層ってのは地味な存在なんですよ。(爆wwwwwwww




伊吹 和子(いぶき かずこ、1929年3月19日2015年12月16日[1])は、日本の編集者エッセイスト
京都市呉服屋に生まれる。女学校卒業後、京都大学国文学研究室に嘱託として勤務。
1953年より、澤瀉久孝らの推薦で谷崎潤一郎の助手となり、『谷崎潤一郎訳源氏物語』の改訳の手伝いをし、他にも病により執筆に支障が出た谷崎のために、谷崎作品あるいは書簡の代筆を行った。1958年から1年間光華女子学園の学園長秘書を務めた後に、谷崎の許に戻り、1959年中央公論社社員となって谷崎の助手を続け、1961年からは川端康成担当編集者となる。

1984年定年退職後、谷崎の思い出を連載し、『われよりほかに』として1994年上梓、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した[2]


澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年明治23年)7月12日 - 1968年昭和43年)10月14日)は、日本国文学者文学博士

1890年(明治23年)、三重県度会郡宇治山田町(現在の三重県伊勢市)に生まれる。
三重県立第四中学校・第三高等学校を経て、1915年大正4年)に京都帝国大学文科大学文学科国文学専攻卒業。第五高等学校教授を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学文学部助教授、1936年(昭和11年)に同教授に就任。その前年に文学博士の学位を授与されている。学位論文の題は 「上代歌謡ノ作者及ビ時代考」。[1] 1951年(昭和26年)、京都大学教授を辞職し、京都大学名誉教授となる。退職後は関西大学ノートルダム清心女子大学皇學館大学で教鞭をとる。
研究人生を『万葉集』一筋に費やした万葉集研究の大家で、特に訓詁の重要性を説いた。京都大学教授を退職した昭和26年に萬葉学会設立の際、その代表者に推された。また、彼の代表著書のひとつである『万葉集注釈』の完成に対し、1967年(昭和42年)に第37回朝日賞が贈られた。翌1968年、萬葉学会の全国大会のために静岡に滞在中、当地にて心不全のため死去[2]。享年78。大阪大学などで教鞭を執ったフランス哲学研究者澤瀉久敬は実弟。

教え子には集英社版『萬葉集』(全10巻)を註釈した事で知られる伊藤博などがいる。














松平 康民(まつだいら やすたみ、文久元年8月26日1861年9月30日) -大正10年(1921年3月3日)は、明治時代から大正時代華族子爵)。津山藩松平斉民の四男として江戸に生まれる。幼名明丸。字、子恵。号、蘭渓。室は八百子(松平定安の四女)。継室は澤子(森川文平の娘)子女は、松平康良松平康春、隆子(市島徳厚夫人)、照子(首藤安人夫人)、渡辺明、鶴子(松平頼庸夫人)、三四子(諫早不二雄夫人)、松平四郎松平文友
明治11年(1878年)兄の松平康倫が没したのちに家督を相続した。明治17年(1884年)子爵に叙爵。明治23年(1890年)より貴族院議員となり、勲三等瑞宝章旭日中綬章を受く。日清日露両戦争での功績により正三位勲三等・従二位に叙された。長男の康良に先立たれていたため、次男の康春が家督を継いだ。墓所は谷中墓地



谷中霊園(やなかれいえん)は、東京都台東区谷中7丁目にある都立霊園。旧称の谷中墓地(やなかぼち)と呼ばれることも多い。面積は約10万平方メートル、およそ7,000基の墓がある。徳川家15代目将軍慶喜や鳩山一郎横山大観渋沢栄一などが眠る。
「谷中墓地」と称される区域には、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、徳川慶喜など徳川氏の墓は寛永寺墓地に属する。


天王寺(てんのうじ)は、東京都台東区谷中にある、天台宗寺院。正式名称は「護国山尊重院天王寺」である。



寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。
徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。

、、、(爆wwwwwwww







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3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

アシストパス

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雑ネタ
>ノートルダム清心女子大学@岡山 パリ外国宣教会 
http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/39520532.html
ja.wikipedia.org/wiki/千坂光子 (夫 北畠姓は自称改名 平岡鳩平・天忠組@斑鳩の子)
>site://tokumei10.blogspot.com 千坂 米沢 湯川れい子 フランス 

匿名 さんのコメント...

アラン・ポーのとこでラファイエットにマルキ・ドってあるから、、
仏語で侯爵って意味だそうですが、マルキ・ド・サド浮かんでしまった
水爆で話題の北で「犬決」あった時、団長さん確か触れてた「ソドム百二十日」
澁澤龍彦に渋沢栄一からの~三島由紀夫とか、、ですね 
なるほど革命脳サマナ

匿名党に通ってると、マルキ・ド・サドって子供の頃になんかあったと思ってしまう、、