2015年9月27日日曜日

郡司篤晃氏が死去 厚生省でエイズ研究班設置

旧厚生省で生物製剤課長を務め、輸入非加熱血液製剤の安全性などについて検討するエイズ研究班を設置した元東大医学部教授の郡司篤晃(ぐんじ・あつあき)氏が17日、直腸がんのため死去した。78歳。水戸市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻寿子(ひさこ)さん。

昭和57年から2年間、生物製剤課長を務め、エイズ研究班を58年に設置した。東京HIV訴訟の法廷での偽証罪で告発されたが、嫌疑不十分で不起訴処分になった。
http://www.sankei.com/life/news/150927/lif1509270031-n1.html













→三菱






内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 - 1982年7月7日)は、日本陸軍軍医中佐1950年には日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を設立している。医学博士

経歴

京都府綾部出身。茨木中学旧制三高を経て、1927年(昭和2年)京都帝国大学医学部に入学し、そこで陸軍委託学生(卒業後陸軍に入ることを条件に学資の給付を受ける)になる。1936年(昭和11年)に京大大学院を卒業。「バクテリオファージ研究補遺」で医学博士となる[1]
1937年(昭和12年)からヨーロッパアメリカでの研究、情報収集を行った後、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した[2]。帰国後、東京戸山陸軍軍医学校で終戦まで軍医教官として勤務した。
1945年(昭和20年)、内藤は731部隊が主導した細菌戦および人体実験に関する重要参考人としてGHQの尋問を受けた後、731部隊の組織図を提出し、人体実験の事実を大筋で認めた(ただし、細菌部隊に関するアイデアはすべて731部隊の部隊長であった石井四郎中将のものだったと主張している[2])。その後は京都大学医学部で小児科の臨床を学び、京都市で小児科医をしていた。戦後の飢餓の中で、輸血さえできれば命を救える婦人や子供の患者に血液銀行の必要性を痛感し、神戸銀行の出資を得て1950年(昭和25年)に日本最初の血液銀行として株式会社日本ブラッドバンクを設立。その後日本各地で民間や公共の血液銀行が創立され競争が激しくなると、内藤は日本ブラッドバンクの事業の柱を人工血液製剤製造に移し、その承認を厚生省に求める際に(内藤自らの希望で)最初に内藤自身が治験第一号になっている。

1982年(昭和57年)、死去。


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