ひし美 ゆり子(ひしみ ゆりこ、1947年6月10日 - )は、日本の女優。本名、境屋 地谷子(旧姓 菱見)。 身長158cm。
東京都中野区鷺宮1丁目(現・若宮1丁目)生まれ[1]。父は北海道出身で浪越徳治郎の旧友であり、戦時中はエンジニアとして兵器の会社に勤務していたほか[1]、後の千葉工業大学で教えていたこともある[2]。父方の祖父は江戸出身で、彰義隊の残党として北海道に移り住み、ミス北海道の女性と結婚した[1]。
彰義隊(しょうぎたい)は、1868年(慶応4年)に江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で明治新政府軍に敗れ解散した。
浪越 徳治郎(なみこし とくじろう、1905年11月15日 - 2000年9月25日)は、香川県仲多度郡多度津町出身。指圧療法創始者。日本指圧協会元会長。
7歳のとき、北海道虻田郡留寿都村に移住。多発性関節リウマチの母の痛みを和らげたいという一心から揉んだり擦ったりするうち、指で押すことで痛みが和らぐことを発見する。後にこの技術を指圧と名づけ、多くの人にその技術を広めるため、1940年、東京市小石川区に指圧学校を設立した。
マリリン・モンローが新婚旅行で来日した際に、胃痙攣(けいれん)で体調を崩したモンローに素手で触って指圧した[1]唯一の日本人である。このことについて浪越は「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と後にテレビ番組の中で述懐している。
他にも、モハメド・アリや吉田茂首相をはじめとした歴代の内閣総理大臣、A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事など、国内外の著名人を治療したことにより、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。
1971年には無所属で第9回参議院議員通常選挙全国区に立候補したが落選した。
テレビドラマやバラエティ番組などにも数多く出演。特に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)では、当初、「アーッハッハ」という豪快な笑い声から「アッハー浪越」の名前で登場。後に、ジェットコースターに乗った際に普段の笑い声が消え、あまりにも怖がっていたためそのリアクションから「ジェット浪越」と命名され、一般人から発掘された福島出身の吉田十三(通称「エンペラー吉田」)とのコンビで知名度を上げた。
「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の決め台詞は、特に有名である。
2000年9月25日午前3時7分に、肺炎のため東京都文京区の病院で家族に見守られて94歳で死去した。日刊スポーツによると、浪越は「100歳まで生きる」と遺言をしていたという。
墓所は東京都文京区小石川三丁目の伝通院。寺の境内には生前浪越が寄贈した指塚がある。日本指圧専門学校は同寺の傍に所在する。
宗 由貴(そう ゆうき、1957年 - )は、香川県仲多度郡多度津町出身の少林寺拳法グループ総裁。
父は香川県にある金剛禅総本山少林寺の開祖宗道臣で、父の死後、少林寺拳法師家第2世宗道臣を襲名した。
金剛禅総本山少林寺の管長を経て、現在は少林寺拳法グループ総裁となっている。
幼少時は少林寺拳法の修練をしていたが、膝を負傷して以降は武芸の稽古からは離れており、自身が保持している段級位は1級である。二児の母でもあるため、子育てと女性の社会進出に関して講演会を開くことが多い。
宗 道臣(そう どうしん、1911年(明治44年)2月10日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、日本の武道家、思想家。日本の武道の一つである少林寺拳法の創始者である。姓名は中野理男(なかのみちお)、中野道臣(なかのみちおみ)を経て宗 道臣を名乗るようになった。少林寺拳法を通じて、日本の将来を担う青少年育成を目指した教育家でもあった。
現在の岡山県美作市で1911年(明治44年)に生まれる。幼い頃に両親を亡くした為に、剣術家・柔術家でもあった祖父・宗重遠を頼って当時の満州へ移住。柔道、柔術(不遷流)、剣道などを既に学んでおり、満州及び中国各地では日本軍の情報工作員のような任務をしながら中国武術の達人達から技術を学ぶ。当時の中国は武術訓練が規制されており(義和団の乱の影響という)、武術家達は各地で隠遁生活を余儀なくされていた。そのため弟子はおろか跡継ぎすらいない武術家もおり、自ら望んで学びに来る宗には喜んで指導をしたという[1]。
その後太平洋戦争直後の1947年(昭和22年)10月満州から帰国するが、自分の事しか考える余裕のない日本人の姿を見て心を痛める。若者達に他人を思いやる心を持ってもらおうと、同年10月25日に香川県仲多度郡多度津町で禅の精神修養と護身を旨とする拳法の流派および宗教団体たる少林寺拳法を創始する。この時に名を「みちおみ」から「どうしん」と改めた。宗教団体としての発足には、当時GHQが武道を禁止していたため、禁令を回避するという側面もあった。少林寺拳法は別派を認めない世界で唯一の宗教団体及び武道団体として結束力が強い。中国の少林拳と混同されやすいが、全く別の武術である。
「日本古来からの武道精神を軸とする」という面で笹川良一や皇族の三笠宮崇仁親王から関心を得て生涯親交が深かった。また政界でも江崎真澄との親交を持ち、息子の鐵磨を秘書に迎えていた。
、、、(爆wwwwwwwwwwww
1 件のコメント:
あ〜ら、ウリの知り合いが住んでる町がw
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