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2.戦時の飛行場
昭和16年7月20日、防衛総司令部が新設された。調布飛行場には、その麾下に編成された第17飛行団と、その直轄部隊である飛行第144戦隊(後に244戦隊と改称)が配置され、爾後、調布飛行場は帝都防空の最重要基地となった。
またこの頃、飛行場と東京天文台の間の水田を埋め立てて東京飛行機製作所(後の倉敷飛行機)調布工場が開設され、12月には、三鷹町大沢の広大な用地に中島飛行機三鷹研究所の建設が開始されている。
調布飛行場は東京府の事業なので買収は強制だったが、中島飛行機は民間会社なので買収を拒否した地主も少なくなかったという。だが、地主の意向などにはお構いなく強引に工事は進められ、既成事実が積み重ねられていった。因みに、中島飛行機の土地買い取り価格は坪12円と、調布飛行場の場合の2倍であった。
中島飛行機の創業者中島知久平は、三鷹研究所用地内にあった別荘用邸宅「泰山荘」を住いとしており、地元民からは「中島のオヤジ」と呼ばれて慕われていた。彼は三鷹研究所を陸海軍合同の航空機開発センターとする壮大な将来構想を描いており、大型機の発着も可能とするため、用地を調布飛行場と一体化し、滑走路も2000m級に延長する計画であった。
研究所用地には、もともと多くの松の大木が植わっていたが、中島知久平はその伐採を嫌い、私費を投じて120人ほどの人夫を雇い、約450本の松を邪魔にならない場所まで移植させた。
昭和17年、最初の用地拡張が実施され、新設の南格納庫地区には第1航空軍司令部、第17飛行団司令部および同偵察中隊、第14航空通信隊等が配置された。この拡張では飛行場用地の南端に位置していた高亀病院が立ち退きとなり、2階建の病棟ごと甲州街道と京王線路を渡って飛田給駅の南側(現成長の家飛田給練成道場)まで移動した。
拡張は、18年、19年と続き、19年の拡張では飛行場南端にあった3つの寺も、お堂ごと畑中を東へ数百メートル引っ張られて移転した。また、飛行場内外に多数の掩体とこれを繋ぐ誘導路、天文台下の段丘崖には射朶や地下兵舎、燃料庫、飛行場隣接地には操縦者用宿泊休養施設である仮泊所が設置された。
更には、飛行場を一望できる東京天文台東側の崖上に高射砲第112連隊第1大隊の高射砲陣地12門および電波標定機が配置されて、調布飛行場は、いわば防空要塞と化していった。
總持寺祖院(そうじじそいん)は、石川県輪島市門前町門前にある曹洞宗の寺院である。山号は諸岳山。通称、能山(のうざん)あるいは岳山(がくざん)。
かつての曹洞宗の大本山「總持寺」。本山の機能が横浜市へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなる。
總持寺 - Wikipedia via kwout
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