もう説明するのは面倒くさいのでフラグだけ・・・(爆wwwwwwww
カトリック関口教会(かとりっくせきぐちきょうかい)は、東京都文京区関口にあるキリスト教(カトリック)の教会。カトリック東京大司教区の司教座聖堂(カテドラル)であり、教会堂名(聖堂名)が「無原罪の聖母」(聖母マリア)であることから、東京カテドラル聖マリア大聖堂(とうきょうカテドラルせいマリアだいせいどう)として知られている。
本項では、教会(信仰共同体)としてのカトリック関口教会だけでなく、建築物としての東京カテドラル聖マリア大聖堂についても記述する。
1877年(明治10年)に日本北緯使徒座代理区の初代司教として来日したピエール・マリー・オズーフは、教会発展のため東京の中心地に土地を求めた。しかし当時、外国人の土地取得は地所質入書入規則[1]により禁止されていた。そのため1886年(明治19年)5月22日、土地所有者の一柳末徳から、オズーフに代わって浅草教会信者名義で小石川関口台町(現在の文京区関口)の土地[2]を購入した。
その後、浅草教会構内にあった「玫瑰(まいかい)学校」の仏文科教頭であった司祭のジャン・ピエール・レイは、学校に収容されていた孤児たちが青年へと成長し、職業訓練等が必要になり、もっと大きな施設が必要となったため、1888年(明治21年)、既に購入済みだった関口台町の土地に高木甚三郎の協力を得て「聖母仏語学校」を設立した。この学校の敷地内に1899年(明治32年)9月10日、生徒たちの協力を得て附属聖堂が建堂される。翌1900年(明治33年)1月7日には小教区聖堂として認められ、同年2月26日には東京府へ「聖母教会」設立願[3]を提出、同年10月8日に認可され独立した。1912年(大正元年)に東京大司教に就任したレイは、大司教座のある築地教会には住まわず、関口教会内で執務し、1920年(大正9年)には大司教座を築地教会から関口教会へと移転した。
1899年(明治32年)に建てられた聖堂は、1923年(大正12年)の関東大震災においても倒壊を免れたが、1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で焼失、焼け残った建物を聖堂として使用していたが、1947年(昭和22年)にコンセットハウス[4](かまぼこ型)が建てられ聖堂となった。1951年(昭和26年)には児童会館の2階を改造し仮聖堂としたが、司教座聖堂(カテドラル)の役割を果たすことが困難だったため、麹町教会の新聖堂を利用していた。また1953年(昭和28年)から1964年(昭和39年)の間、神田教会を仮司教座聖堂(プロカテドラル)とした。
1964年(昭和39年)12月、現在の聖堂が完成し司教座聖堂(カテドラル)となった。この聖堂は、1966年(昭和41年)に第7回BCS賞を受賞、2003年(平成15年)にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。
1967年(昭和42年)10月23日には吉田茂元内閣総理大臣の葬儀が行われた。また東京カテドラル聖マリア大聖堂の設計者、丹下健三の葬儀もここで行なわれた。
また、近年のエキュメニズム運動の主要な舞台の一つでもあり、2009年(平成21年)9月23日にはカトリック教会とは別のキリスト教派である日本聖公会の150周年記念礼拝が行われた。
東京カテドラル聖マリア大聖堂
前川國男、谷口吉郎、丹下健三の3名に絞り込んだ指名コンペであり、設計期間は6か月。現代的なものをというケルン側からの要望で設計条件は特になく、宗教行事を執り行う上で必要不可欠なものを備えていさえすればよいとされた[6]。審査員は建築界から吉武泰水、今井兼次、杉山英男、教会側からは3名の司祭とケルンから派遣された教会建築専門の建築家ウィルヘルム・シュロンブがあたった。
美術館を連想させるマッシブな四角い立方体の前川案、平面計画は三味線のバチを思わせる銀杏形であったが全体的にはやはり公会堂や音楽堂を連想させる箱型の谷口案に比べ、HPシェルの現代的な構造技術を用いながら、教会の建物そのものが頂部において十字架型になるという丹下案が異彩を放ち、丹下が一等当選。西洋の教会に典型的に見られるような街路から直接入堂する形式の建築計画ではなく、いったん敷地の奥の方「ルルドの洞窟」に向かって進み、それから転回するようにして階段を上り聖堂に至るという動線は、まず鳥居や山門をくぐって参道を歩みながら徐々に気持ちを整え、それから「本尊」に相対するといった日本の伝統的な手法であり、建物本体の記念碑性だけでなく「場」の力によって聖性を生み出すことが目指されていた。その、教会に付属する周辺施設との配置バランスにすぐれた全体計画も高評価の理由であった[7][8]。
なお、これら3つの設計案を最終的に決めるのはカトリック東京大司教である土井辰雄枢機卿であり、必ずしも推薦された案を採用しなくてもよいと決められていた。彼は「私は皆さんが選んだものを神様の御意思として受けます。私は委員の皆さんを信頼しています」と語り、白柳誠一神父(のちの東京大司教・枢機卿)が模型や青写真を見るように頼んだが、「いいんです」と言って微笑した。ところが、後日に実際に建築プランや模型を見て、一瞬大変驚いたという[9]。
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コンクリートで打ち出されたままの内壁は禁欲的で静謐な印象を与え、その打ち跡は近代建築に残されたわずかな手技を感じさせる。最頂部で40m近くに達する内部空間は伝統的なゴシック教会建築の上昇感覚を表象するとともに、キリスト教の前身である旧約の古代ユダヤ教会の幕屋をも同時に偲ばせる造形になっている[7]。残響は7秒(空席時)に達し、典型的な中世ヨーロッパの大聖堂よりも長い。ヨーロッパの典型的な大聖堂のそれに似た音響特性を持つ大空間は日本では珍しいとされ、時おり開催されるパイプオルガンやオラトリオ・グレゴリオ聖歌などの演奏会では、現代的なコンサートホールでは味わうことができない教会特有の響きを味わうことができる。しかし、長い残響と、変則的な壁面形状による反射の周波数特性から、司祭の説教は聞き取りにくく、音楽によっては音が混濁した印象を与える。現在のパイプオルガンは2代目で、2004年(平成16年)に完成し、同年5月に公開された。
構内ではサン・ピエトロ大聖堂のピエタ(ミケランジェロ)の精巧なレプリカやフランシスコ・ザビエルの胸像などの収蔵品を観ることができる。
地下に納骨堂および小聖堂(小礼拝堂)を持ち、聖堂脇には鉄筋コンクリート製の鐘塔が鋭いフォルムを見せて起立している。聖堂内の一角にはドイツ・ケルンのイエズス会から寄贈された聖フランシスコ・ザビエルの「胸像」が展示されているが、正確に言うとこれは聖遺物容器である(聖堂内の別の一角には、寄贈を証する日独併記の文書も掲げられている)。さらに教会敷地奥には、聖母マリアが聖ベルナデッタに「無原罪の御宿り」を告げたとされるフランスのルルドの泉の洞窟の岩場が再現されており、[15]この岩場の中には、大きな聖マリア像がある。
ピエール・マリー・オズーフ(仏:Pierre Marie Osouf、1829年5月26日 - 1906年6月27日)は、キリスト教・カトリックのフランス人宣教師である。パリ外国宣教会所属で、1877年(明治11年)に来日し、1891年(明治24年)6月にカトリック東京大司教区の初代大司教(教区長)に就任した
一柳 末徳(ひとつやなぎ すえのり、嘉永3年7月19日(1850年8月26日) - 大正11年(1922年)3月7日)は、播磨小野藩の第11代(最後)の藩主。
丹波綾部藩主・九鬼隆都の五男。正室は栄子(一柳頼紹の娘)。継室志乃。妾蓉子他。子は長男一柳譲二、次男広岡恵三(加島銀行、大同生命)、三男一柳剛、長女(大井光衛室)、次女喜久子(森忠恕室)、三女満喜子(ウィリアム・メレル・ヴォーリズ室)、四女(筏井寿夫室)ほか。官位は従二位、対馬守。幼名は包五郎。
先代藩主・末彦の養嗣子となり、文久3年(1863年)6月9日の末彦の隠居により家督を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早くに新政府に帰順して北越戦争に出兵する。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で上京する。その後は慶應義塾に入って英学を学んだ。
明治12年(1879年)には東京芝区会議長となる。明治17年(1884年)の華族令で子爵となり、その後帝国博物館員を務めた。後に貴族院議員を4期ほど務め、1920年(大正9年)1月17日に辞職した[1]。大正11年(1922年)3月7日、兵庫県明石市大蔵谷本邸にて死去した。享年73。
赤崎記念研究館 | 匿名党 via kwout
赤崎記念研究館 | 匿名党 via kwout
日本の反英米サマナは自分たちがホントはどういふ理由で戦わされてたのかすら理解できてないんですよ。(爆wwwwwwwwwww
4 件のコメント:
関口フランスパンの歴史
WW2直後、勝利者側に立ったもののために戦い、現在本当の勝者にあるものと、WW2直後に勝利者の振りをしたものにうごかされました。
関口っつたら三河だね
>フランスパン
ああ確かにボールはフランスパン だわw
大学生がドイツの世界遺産に落書き 大学側が謝罪 | NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160803/k10010620391000.html
8月3日 20時25分
神奈川大学の学生が、世界遺産に登録されているドイツのケルン大聖堂に落書きし、大学側が謝罪していたことが分かりました。
神奈川大学によりますと、ことし6月30日、学生2人が、ドイツで行っていた課外活動中に、世界遺産に登録されているケルン大聖堂の回廊の壁にペンで落書きをしたということです。
その後、その学生が落書きをした壁の写真をツイッターに載せたことから、引率していた教員などが気づいたということです。大学側は事態を重くみて、先月7日、副学長がケルン大聖堂を訪れ、落書きした学生2人と共に直接、謝罪したということです。そのうえで、大学側は「落書きを消す作業を行いたい」と申し出ましたが、ケルン大聖堂からは「その必要はない」と断られたということです。
落書きした学生は、大学に対して「落書きをしてしまい、申し訳ございません」と話しているということで、大学は、学生の処分を検討しています。
神奈川大学の兼子良夫学長は「ケルン大聖堂を愛し、尊敬してきたドイツ国民や世界の皆様に、心からおわび申し上げます」とコメントしています。
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