2015年6月27日土曜日

「大正天皇実録」 黒塗りだった記録公開


「大正天皇実録」 黒塗りだった記録公開
6月27日 19時03分

13年前に公開された大正天皇の活動記録、「大正天皇実録」について、宮内庁は個人情報の保護などを理由に一部を黒塗りにした当時の措置を見直し大部分を公開しました。病弱で悲運の天皇として知られる大正天皇の体調や病状、未発表の動静などの詳細が明らかになりました。
大正天皇実録は大正天皇が47歳で崩御するまでの日々の動静を記した公式の記録集で、平成14年から公開されましたが、個人情報の保護などを理由に全体のおよそ3%が黒く塗りつぶされていました。
一方、去年完成した昭和天皇実録は個人情報にあたるものも可能なかぎり、公開するとして黒塗りは行われず、NHKでは大正天皇実録についても同じ基準で公開するよう申請し、宮内庁は当時の措置を見直して黒塗り部分のおよそ8割を解除しました。
この中には、病弱だった大正天皇が事実上、引退する原因となった発語障害や歩行困難などの体調の異状や、晩年の脳貧血の病状などが詳しく記されている箇所もあります。
また、即位後、元老の山県有朋などの要人と頻繁に会っていたことや、第1次世界大戦について軍の幹部から、たびたび説明を受けていたことなども分かりました。
こうした動静について宮内庁は「公式には発表されていない私的なものだ」として、当初、黒塗りにして公開を見送ったということです。
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、「本来公開されるべき情報が長年伏せられていたことは大きな問題だ」としたうえで、今回、黒塗りの大部分が公開されたことについて、「戦前の天皇は最高の公人であり、実質的に活動していた時期を中心に多くの記述が読めるようになったことは、当時の国の動きや大正天皇の人物像の研究を深める手がかりになる」と話しています。
大正天皇実録とは
大正天皇実録は天皇陛下の祖父、大正天皇の日々の動静を記した公式の記録集で、昭和2年から昭和12年まで10年余りかけて当時の宮内省が編さんしました。
明治12年の誕生から大正15年の崩御までの47年余りの活動が年代順に日誌のようなかたちで記されていて、本編は85巻5000ページ余りからなります。
長らく公開されませんでしたが、情報公開法の施行を受けて平成14年から段階的に公開され、今は全巻が皇居にある宮内公文書館に所蔵され、閲覧やコピーをすることができます。
ただ、個人情報の保護などを理由に一部は黒く塗りつぶす措置が取られていて、すでに書籍になっている明治天皇紀や、ことし3月から段階的に出版が始まった昭和天皇実録とは違い、今のところ出版の計画はありません。
成績の報告書なども公開
大正天皇は歴代の天皇で初めて学校に通いました。
明治26年7月、学習院初等科の卒業式のあとの記述は21ページにわたって全文が伏せられていました。伏せられていたのは父親の明治天皇に宛てられた学校の成績などの報告書で、今回、成績の順位とみられる箇所を除き、ほぼすべてが公開されました。
大正天皇は明治20年、8歳で今の小学2年生に当たるクラスに編入されましたが、病気で83日欠席し、進級試験も受けられなかったため、留年することになったと記されています。
その後、体調が安定して進級を重ね、4年生のときには1年間、1日も休まず、「学期末の御成績も著しく」、「精勤証書」、つまり、皆勤賞を受けたと書かれています。
しかし、6年生になると再び大きな病気をして12月から3月まで74日間にわたって欠席していました。
成績が心配されたが、回復後は心身の気力が以前にも増し、卒業できたと記されています。
山県有朋と頻繁に面会も
今回、公開された記述からは、大正天皇が即位後、多忙な日々を送っていたことがうかがえます。
「大正4年1月3日」の動静は日付以外、すべて黒塗りにされ内容が伏せられていましたが、元老の山県有朋の拝謁を受けたあと、晩さんをともにしていたことが分かりました。
長州出身で陸軍元帥の山県は当時、元老の筆頭格として枢密院議長を務めていて、政治や軍事などで事実上、最高決定権を持つ立場にいました。
軍事にあまり興味がなかったとされる大正天皇は、山県と疎遠だったと考えられていましたが、実録では「以後こういうことがしばしばあった」と記され、即位後、頻繁に会っていたことが分かりました。
また、同じ年の4月30日には海軍の幹部から第1次世界大戦の情勢について説明を受けていたことが分かりました。
掲載されている一覧表には、その後、大正天皇が聞いた軍事に関する説明の数々が列記されていました。
大正天皇は即位後、多忙な日々を送るなか心労が重なって体調を崩したと、当時の宮内省が発表していましたが、今回公開された記述からはその一端がうかがえます。
体調や病状の詳しい記述も
今回、公開された中には病弱だった大正天皇の体調や病状に関する詳しい記述もあります。
このうち、大正7年、38歳のとき、静養で日光の御用邸に滞在した際には、「一昨年頃から発語障害や歩行困難などの異状があり、それが治らないため滞在中はほとんど遠出をしなかった」という内容の記述がありました。大正天皇はその後、病状が悪化して大正10年、皇太子、のちの昭和天皇を摂政にして事実上、引退します。
崩御の1年前、大正14年12月に起きた脳貧血の発作については、当時の発表では軽症だったとされ、実録では日付けと「脳貧血にて」「漸次御恢復あり」という部分以外、黒塗りにされていました。
ところが、今回、黒塗りが解除されたことで「一時人事不省」に陥り、3か月余り寝たきりの状態になるほどの重症だったことが分かりました。
当時の黒塗りの判断に疑問も
今回、黒塗りが解除された中には重要な情報が秘められているのではないかという専門家の予想が裏切られた箇所もありました。
大正4年に行われた即位の儀式では、皇祖神の天照大神に即位したことを告げる御告文を読む場面で、1か所だけ6文字分の黒塗りがありました。
今回、解除されて出てきたのは、「玉音高らかに」と単に読み上げる様子を描写しただけのことばでした。
宮内庁は、「その場にいた関係者しか知らないことで、発表されていないので黒塗りにした」としています。
日本大学の古川隆久教授は、「天皇にとって、いちばん大事な儀式で情報が伏せてあったので、よほどのことが書いてあるのではないかと想像していたが、肩透かしだった。宮内庁の当初の黒塗りの判断が形式的すぎて無意味だったという典型例だ」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150627/k10010130031000.html

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

エリザベス女王、ドイツが贈った絵に対するコメントが話題に 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.afpbb.com/articles/-/3052952

【6月27日 AFP】今週、ドイツを訪れていた英国のエリザベス女王(Queen Elizabeth II)が、英王室のシンボルカラー「ロイヤルブルー」のような青い馬を描いた絵画を贈呈された際に「馬にしては変な色ね」と述べたことが、いささか波紋を呼んでいる。

 エリザベス女王は今週初め、夫のフィリップ殿下(Prince Philip)とともに訪れたドイツのベルビュー宮殿(大統領官邸、Bellevue Palace)で、ヨアヒム・ガウク(Joachim Gauck)大統領から1枚の絵画を贈呈された。絵は現在89歳の女王が幼かったころ、父ジョージ6世(King George VI)が引くポニーに乗った写真をもとに、ドイツ人画家のニコル・ライデンフロスト(Nicole Leidenfrost)さんが描いたものだった。

 しかし、インターネット上に出回っているビデオによると、絵を見た女王はまず「馬にしては変な色ね」と言い、さらに「あれが私の父ということなのかしら」と述べた。

 この女王の反応について、作者のライデンフロストさんは26日付の独日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(Frankfurter Allgemeine Zeitung)などに「単に楽しいかどうか。私の作品は大真面目な芸術ではない」「女王は笑い、喜んでいた。それこそが私の目指すところだった」などと語り、自分の作品を擁護した。

 またドイツのコメンテーターたちは26日、この贈呈品に対する英各紙の論評を、贈り物のあら探しをするなという意味の英語のことわざ、「贈られた馬の口の中を見るな」を使って取り上げた。(c)AFP

匿名 さんのコメント...

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