寺や神社の石像などに液体やスプレー 東京
2015年5月11日 19:10
警視庁によると、10日午後、東京・板橋区の円福寺で、石像に黒い液体がかけらているのが見つかった。液体は油分を含んでいて石像に染みこみ、拭いても落ちないという。
また、江東区の天祖神社では11日朝、石碑に白いスプレーがかけられるのが見つかった。警視庁は器物損壊などの疑いで捜査している。
http://www.news24.jp/articles/2015/05/11/07274748.html
曹洞宗寺院の円福寺は、西台山と号します。円福寺は、太田道灌が文明11年(1479)川越に開創し、慶長13(1608)年に当地へ移転、西台の大寺として知られ、慶安2(1649)年には寺領20石の御朱印状を拝領したといいます。
いたばしの寺院による円福寺の縁起
本寺の開創は文明十一年(一四七九)とも永正年間ともいわれる。開山は雲崗(永正十三年-一五一六没) にょって永正年間に既に創立されていたことは「多田彦六老母寄進状」 (永正十年一五一三) によって明らかである。
然るにこれより百三十数年後の慶長十三年(一六〇八)に当西台の地に「洪州」によって川越の円福寺が移転して来て開創されたという。(寛文六年-一六六六-の奥書のある過去帳。洪州の手によっての記載)。この記載では勧請開山が雲崗勧請開基が道灌で、洪州は第二世となっている。
ここで解明しにくいのは、多田老母の永正の寄進状と慶長の「川越円福寺移転」という二重の円福寺開創と其の間の年数、住職世代の第一世と第二世の間の年数である。若し推測が許されるならば文明十一年(一四七九)に円福寺は西台の地に雲崗によって開山され、それから百三十二年後に、川越の円福寺が移転して来て、合寺の形で新に西台の地に「円福寺」が洪州によって整えられ、円福寺第二世になったということである。それとも多田文書は円福寺が川越にありながら、遠く離れた西台の地に於て多田彦六老母が、永正年間に畠を二度に亘って寄進したと見るべきであろうか。未詳。
本寺は大寺の名にふさわしく、かっては参道だけでも一町(約六百米)もあったという。慶安二年(一六四九)十月、徳川家光が朱印地二十石を西台村の中に寄進し、代々の将軍に引き継がれた。弘化二年(一八四五) の火災により山門のみを残し、堂宇寺宝の多くを消失した。享保二年には本山より「随意法幢地」の寺格をさずけられ、慶応四年の神仏分離までは西台村の神明宮(天祖神社)別当寺であった。なお、寺紋は道灌ゆかりの「太田桔梗」で、道灌がこの付近を狩りをしたとの伝説も残っている。 (いたばしの寺院より)
新編武蔵風土記稿による円福寺の縁起
(西台村)円福寺
禅宗曹洞派、入間郡越生龍穏寺末、西台山と号す。本尊拈華釈迦、慶安二年十月寺領十石の御朱印を賜へり。開山雲崗俊徳、永正十三年五月十五日寂す。
鐘楼。延宝四年鋳造の鐘なり。
白山社。
稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)
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