江尻宏一郎氏が死去 元三井物産社長
2015/4/27 21:26
江尻 宏一郎氏(えじり・こういちろう=元三井物産社長)21日、多臓器不全のため死去、94歳。連絡先は同社秘書室。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻、光子さん。
1943年入社。米国三井物産社長などを経て85年社長。日本とイランの合弁事業、イラン・ジャパン石油化学(IJPC)の清算交渉をまとめ、90年に合弁を解消した。92年から日本貿易会会長を務めた。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27HB1_X20C15A4CZ8000/
江尻 宏一郎(えじり こういちろう 1920年9月1日 - 2015年4月21日[1])は、日本の実業家。三井物産第6代目社長。神奈川県横浜市生まれ。
来歴・人物
父は三井物産勤務の商社マンだった。東京府立一中卒業後、柔道の力量を見込まれ第六高等学校に入学した。六高を経て、東京帝国大学法学部入学。中学時代から柔道部に所属し、六高、東大と通じてキャプテンを務めた。六高柔道部先輩に永野重雄、同部同期に亀長友義(参議院議員、農林事務次官)らがいた。同じクラスの石井多加三(国際電電社長、郵政事務次官)とは親友だった[2]。1943年(昭和18年)9月、戦時中の折、東京帝大法学部を繰り上げ卒業し、父と同様三井物産入 社。入社してからは主に物産の看板である鉄鋼畑を歩み、1972年(昭和47年)、豪州三井物産社長、1975年(昭和50年) 取締役、1977年(昭和52年) 常務、1982年(昭和57年) 専務、1983年(昭和58年) 業務本部長兼副社長就任。1985年(昭和60年) 社長に就任。社長就任後、中学同窓のマニラ支店長が誘拐された三井物産マニラ支店長誘拐事件にも遭うが、1989年(平成元年)10月、イラン・イラク戦争以来中断し、物産の長年の懸案であったイラン・ジャパン石油化学(IJPC)事業の清算金をイラン政府に支払うことで合意し解決に導いたのを機に、1990年(平成2年) 会長に就任。筆頭副社長には同じ鉄鋼畑出身の上島重二、後任社長には熊谷直彦、相談役に八尋俊邦がそれぞれ就いた。1992年~1996年(平成4年~平成8年)、日本貿易会会長時代には、円高差益に逆行し石油製品が値上げの動きにあることに対して石油業界・石油連盟と対立。のち誤解であったと判り謝罪したが、時限立法である特石法が1996年3月に廃止予定であり、こうした規制緩和後の輸入業者の資格選定をめぐる商社の業容拡大・商機拡大に向けての布石だったとの見方もあった[3]。1996年(平成8年)、上島重二が社長に就任、熊谷直彦が会長に就任し、自らは相談役に。
巨人軍を応援する財界人の組織である燦燦会会長も務めた。
亀長 友義(かめなが ともよし、1920年9月26日 - 2011年1月17日)は、日本の農林官僚、政治家。参議院議員(2期)、元全国農業共済会長[1]。
東京帝国大学法学部卒業後、1943年農林省入省[2]。食糧庁総務部企画課長[3]、水産庁生産部長[4]、食糧庁長官を経て、1972年農林省事務次官に就任。退官後は大日本水産会長に就任[2]。
1977年の第11回参議院議員通常選挙徳島県選挙区で自由民主党から出馬し、初当選。2期務める。
1989年の第15回参議院議員通常選挙で連合の乾晴美にやぶれ落選。
1990年、勲二等旭日重光章を受章。2006年、大日本水産会水産功績者表彰を受ける[5]。
2011年、老衰のため死去[6]。町田勝弘農林水産省事務次官が、弔辞を読んだ。
その他
、、、(爆wwwwwwww
1 件のコメント:
面白い学校のご出身ですねえ^^
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