2015年4月17日金曜日

11th Naruto Movie@8・7






もうAREA11は確定事項なわけですよ。(爆wwwwwwwwwwwwww

そもそもNarutoはオレンジ色だったわけですが、Borutoは・・・(爆wwwwwwwwww

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ピンクというと北半島に行ったBasqueェットボールのあのお方のイメージ

GABRIEL さんのコメント...

オレンジのナルト
ホワイトな衣装になって
ピンクぶっかけられてますね(苦笑

巷は未だにというか
寧ろオレンジ強調系な服装の方々もいて

ピンクを久方に差し色と思っているのに
オザワンとメロリンの愉快ななかまたちが
矢鱈ポスターの配色にピンク使うので
嫌なこの頃

匿名 さんのコメント...

ナルトってラーメン大好き小池さんの
仲間なのですか?



匿名 さんのコメント...

BORUTO 牛頭天王

色々と匿名党的キーワードががが




牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた[1]。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない。[1]



概要

牛頭天王は、京都祇園社(現八坂神社)の祭神である。

『祇園牛頭天王御縁起[2][3][4]』によれば、本地仏は東方浄瑠璃界の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須弥山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、すがたを現した[5]。

太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛頭をもち、また、3尺の赤い角もあった[3][注釈 1]。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后をむかえようとするものの、その姿かたちの怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった[5]。

3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙掲羅龍王の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王は娘を娶りに出かける[5]。

旅の途次、長者である弟の古単将来に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民将来は歓待して宿を貸し、粟飯をふるまった。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民にさずけ、蘇民は富貴の人となった[5]。

龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、8年をそこで過ごすあいだに七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、古単への復讐を図った。古端は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという[3]。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した[5]。

以上が、『祇園牛頭天王御縁起』の概要である[注釈 2]。
牛頭天王の神格

牛頭天王の神格についてはさまざまな説があり、江戸時代から明治時代にかけて復古神道の影響下で主張されたスサノオ・朝鮮半島起源説が知られるが、神仏分離と国家神道の政治的な影響が大きいともいわれ、定説は確立していない[6]。

牛頭天王は、平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきた[7]が、御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。これが祇園祭の起源である[6][8]。

これについて、当時は疫病は異国からの伝染と考えて、異国由来の疫病神として牛頭天王を祀る由来となったと考える立場もある[8]。いずれにせよ、牛頭天王は、子の八王子権現や眷属とともに疫病を司る神とされたのである[8]。


スサノオとの習合・朝鮮半島との関係

新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀[注釈 3]を産したところから、この山の名を冠した神と同一視[要出典]する説がある。

また『日本書紀』巻第一神代上第八段一書[注釈 4]に、スサノオ(素戔嗚尊)が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)という地に高天原[注釈 5]から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、すぐに出雲の国に渡ったとの記述[注釈 6]があるが、この伝承に対して、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという説[6][8]もある。ただし現代のハングル表記による朝鮮語と古代の新羅語では発音が異なっていたとして、この説に対する異論もある[6]。

また、ソシモリのソは蘇民のソで、蘇民は「ソの民」であるとして、蘇民将来説話と『日本書紀』のスサノオのソシモリ降臨と関連づける説もある[8]。

祇園神が鎮祭されたのは、奈良時代以前に遡るとされ、記録の上では詳細不明である。八坂神社が1870年(明治3年)に出版した『八坂社舊記集録[注釈 7]』上[9]中下[10](紀繁継 『八坂社旧記集録』『八坂誌』ともいう)巻頭に承暦3年(1079年)の年代の記された記載を謄写した[注釈 8]という「八坂郷鎮座大神之記」には

八坂郷鎮座大神之記

齊明天皇即位二年丙辰八月韓國之調進副使伊利之使主
再來之時新羅國牛頭山座須佐之雄尊之神御魂齋祭來而
皇國祭始依之愛宕郡賜八坂郷並造之姓十二年後
天地天皇御宇六年丁 社號為威神院宮殿全造營而牛頭
山坐之大神乎牛頭天王奉称祭祀畢
淳和天皇御宇天長六年右衞門督紀朝臣百繼尓感神院祀
官並八坂造之業賜為受續
     奉齋御神名記
神速須佐乃男尊           中央座
— 『八坂社舊記集録』上[11]

とあり、斉明天皇2年(656年)高句麗の使、伊利之使主(イリシオミ)が来朝したとき新羅国の牛頭山の須佐之雄尊を祭ると伝えられる。伊利之は『新撰姓氏録』山城国諸蕃の八坂造に、意利佐[注釈 9]の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称していた。この伝承にそのまま従うと「日本における神仏習合以前に、朝鮮半島ですでに日本神話のスサノオが信仰されており、その信仰をもちこんだ渡来人が住みついた後になってから牛頭天王と習合した」ということになるが、川村湊や真弓常忠は「朝鮮半島より渡来した人々が住みついて牛頭天王を祀ったが、その後、日本神話のスサノオと習合した」と解釈している[6][8]。