2015年3月31日火曜日

八大龍王大自然愛信教団@岩見沢@Culpritsから芋づる式に








かなり日本の反英米サマナの中枢がロックオンされてきましたねえ・・・(爆wwwwwwwww




八大龍王大自然愛信教団(はちだいりゅうおうだいしぜんあいしんきょうだん)は、日本宗教法人の名前であり、新宗教に属する。教派としては仏教日蓮宗であるが、天台宗修験道神道などの要素も含有している。また、名前の似た江差町八大龍王神八江聖団とは関係はない。

概要
教団創設者である石川センによって、1935年愛信会岩見沢に設立。一時、神道大教に属するが、1941年神道大教を脱退。同年10月に拝殿を落成させ、天龍石仙改要之神八大龍王愛信会を設立。1948年宗教法人令により宗教法人八大龍王大自然愛信教団を設立し、1953年宗教法人法に基づいて宗教法人となり、拝殿を新築落成し記念大祭を挙行した。同日に元大正天皇侍従安藤信昭より大正天皇御衣を教団宝物として拝領したという。1957年馬頭観世音堂を建立。1961年教祖石川センが逝去し、石川はつ子が教主として継ぐ。1984年に現在地に、本部、拝殿や馬頭観世音堂などを移築し、現在に至る。
布教活動として、宗教特別昂揚研修会の開催や教師を巡回講師に派遣したり、スライドテープDVDなど通信・音響機器による教化活動も行う。

八大龍王神八江聖団との違い


八大龍王大自然愛信教団は、日蓮宗や法華経といった仏教色の色彩が強いが、八大龍王神八江聖団は滝修行など山岳信仰や修験道など神道色が強く、八江聖団では本部支部を「本」「分宮」と呼ぶ辺りにもそれが表れている。






下条 康麿(しもじょう やすまろ、1885年明治18年)1月20日 - 1966年昭和41年)4月25日)は、日本政治家内務官僚統計学および社会学者。経済学博士貴族院議員参議院議員、吉田茂内閣文部大臣を歴任した。
厚生大臣を務めた下条進一郎は長男、衆議院議員の下条みつは孫に当たる。


長野県東筑摩郡松本生まれ。旧松本藩御典医(120石、贈従五位下条通春の孫にして医師下条鋼吉の二男[1]
府立一中[2]第一高等学校[3]を経て、1909年(明治42年) 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、内務省入省。
最初の見習い期間は警保局であった。地方行政に携わり、佐賀県学務課長を経て、1912年大正元年) 内閣書記官に就任する。後に参議院議長を務めた河井彌八はこのときの同僚である。その後、内務省に戻り、統計局で勤務。
1923年(大正12年) 内閣恩給局長、翌1924年(大正13年) 内閣統計局長を兼務し、1925年(大正14年) 第二回国勢調査を実施、関東大震災後の国勢調査に当たる。日本の人口増加など人口問題に関心を持った下条は、勤務の傍らに大学で統計学と人口問題を研究し、社会政策に研究が及んだ。下条の研究は、論文「日本社会政策的施策史」としてまとめられ、1931年(昭和6年) 経済学博士号を授与された。
1929年(昭和4年) 濱口雄幸内閣の賞勲局総裁に抜擢される。当時の賞勲局は、下条の前任者である天岡直嘉にからむ売勲事件があり、汚職事件によって評判が地に堕ちていた。下条は、1940年(昭和15年)まで足掛け11年にわたり、賞勲局総裁を務め、厳正かつ公正に職務を全うし、同局の建て直しに尽力した。賞勲局総裁を辞した後、功績により、貴族院議員に勅選される[4]。戦時中も東京大学で統計学の研究を続け、1944年(昭和19年) 日本大学教授として招聘され、統計学・社会政策論の講義をする。
戦後、日本国憲法により貴族院が廃止され、新たに参議院が発足すると1947年(昭和22年)第1回参議院議員通常選挙全国区から立候補し当選する。下条は同じ無所属で当選した河井彌八、松平恒雄佐藤尚武田中耕太郎高橋龍太郎山本有三らと語らって緑風会を結成する。1948年(昭和23年) 第2次吉田内閣の文部大臣に就任するが、翌1949年(昭和24年) 法隆寺金堂焼失に伴い、引責辞任する。
また、1946年(昭和21年)10月5日、大陸同胞救援聯合会会長に就任し、葫芦島在留日本人大送還などの在満邦人の帰国事業に助力する[5]
大臣辞任後、下条は、郡山女子短期大学の学長に迎えられ、この間、統計学、社会政策研究も怠ることなく、日本統計学会会長、家族計画連盟会長にも就任している。また、農地改革によって没落した旧地主層に対する補償を求め、全国開放農地国家補償連合会長にも押された(のち同様の他団体と合同して全国農地解放者同盟)。八大龍王大自然愛信教団顧問にも就任している。1956年(昭和31年)よりふたたび参議院議員(1期6年)。
1966年(昭和41年)4月25日死去。81歳。

著書に「社会政策の理論と施設」「日本社会政策的施設史」がある[4]






石川 一郎(いしかわ いちろう、1885年明治18年)11月5日 - 1970年昭和45年)1月20日)は、日本の財界人、経営者。東京帝国大学助教授、日産化学工業社長を経て、旧経済団体連合会(現日本経済団体連合会)初代会長(在任1948年(昭和23年)~1956年(昭和31年))。日産化学工業元社長、元会長。昭和電工元社長、元会長。

1885年(明治18年)11月5日東京に生まれる。元関東酸曹常務[1]卯一郎の長男[1]。父・卯一郎は大坂の出身で[2]、石川家は江戸時代「宇田屋」という屋号商家であった[2]。父は関東酸曹というカセイソーダ製造の化学会社を経営した[2]
旧制京華中学、旧制第一高等学校工科を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学工科応用化学科を卒業。大学に残り、東京帝国大学工科助教授となる。
1915年(大正4年)に東大を辞し、父卯一郎の経営する関東酸曹に入社する。これは父の懇請によるもので、石川としては学問と実業を橋渡しするという決意のあらわれであった。関西硫酸販売社長、東部硫酸販売会長を経て、1941年昭和16年)に産業統制によって発足した日産化学工業社長に就任。1942年(昭和17年)化学工業統制会会長(のちに化学工業連盟会長)に就任し、名実ともに戦前における日本の化学工業界のリーダーとなる。
戦後、化学工業界から、日本経済の中心へ踊りだす。1946年(昭和21年)日本産業協会(日産協)会長、1948年(昭和23年)に発足間もない経済団体連合会(経 団連)初代会長に就任した。石川は技術畑で謹厳な性格でもあり、東大助教授出身の学究肌で、近代的な合理性を兼ね備えた経営者であるとして、石川の経団連 会長就任に当たっては、新しいタイプの財界指導者の出現と評価された。日本経済が敗戦の混乱にあるとき、経営者の結束を図り協調と共存共栄を説いて回っ た。経団連会長就任の背景は、当時、「一万田法王」として日本経済に君臨していた一万田尚登日銀総裁との親密関係の賜物であったとされる。また、1946年8月14日、貴族院勅選議員となり[3]、翌年5月の貴族院廃止まで在任した[4]
経団連会長時代は、GHQに占領されていた前期と、講和発効後の後期に分けられる。前期は、賠償、財閥解体独占禁止法の制定など戦後の経済民主化において日本経済がうまく対応できるようにすることが課題であった。石川はこの間、GHQと折衝し、日本経済界の意見を反映させるように努力している。後期は、防衛産業の育成に力点を置き、経団連に防衛生産委員会を発足させ、国産兵器生産に道を拓いた。この間、1949年(昭和24年)には、昭和電工会長、1951年(昭和26年)には、東京電力取締役に就任している。1956年(昭和31年)1月経団連会長を石坂泰三に譲り、退任する。

経団連会長を退任した1956年(昭和31年)に原子力委員会が発足する。石川は経団連会長であった1955年(昭和30年)にすでにジュネーヴ原子力平和利用国際会議の日本首席代表、日本原子力研究所理事長として「原子力の父」ともいうべき存在であったが、さらに原子力委員に就任を要請され、就任する。正力松太郎委員長(国務大臣・科学技術庁長官)のもと、委員には石川のほか、湯川秀樹藤岡由夫有澤廣巳らが選ばれ、石川は委員長代理となった。1963年(昭和38年)設立の日本原子力船開発事業団理事長に就任。1964年(昭和39年)カナダアメリカに原子力船事業の視察に赴く。勲一等瑞宝章を受章。1970年(昭和45年)1月20日死去。85歳。死後、政府から正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。


石川 六郎(いしかわ ろくろう、1925年大正14年)11月5日 - 2005年平成17年)12月14日)は、日本実業家鹿島名誉会長、日本商工会議所第15代会頭。妻・ヨシ子は鹿島の第4代社長・鹿島守之助の娘。父は石川一郎初代経団連会長。
学位工学博士(東京大学)。称号は日本商工会議所・東京商工会議所名誉会頭。その他の役職として日本卓球協会第7代名誉会長日本を守る国民会議顧問、日本会議顧問を務めた。

東京府北豊島郡滝野川大字西ヶ原(現在の東京都北区西ヶ原)に生まれた[1]石川一郎、冨美子の六男。父は合併で大日本人造肥料となっていた大きな化学会社の常務だった[1]
東京高師附属小学校(現・筑波大附属小)、東京高師附属中学校(現・筑波大附属中・高)卒業。附属中の同期生には、山本卓眞富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)、芥川也寸志芥川龍之介の三男)などがいる。旧制成蹊高等学校を経て、東京帝国大学第二工学部に入学。
1948年(昭和23年)に東京帝国大学第二工学部を卒業した後、運輸省(現国土交通省)に入省。日本国有鉄道に勤務中、鹿島の第4代社長・鹿島守之助の目に留まった。これを契機に鹿島家との交流を深めた六郎は1953年(昭和828年)、守之助の二女で画家のヨシ子と結婚。また、守之助から鹿島への入社を打診された。六郎はこれを受諾し、1955年(昭和30年)に国鉄を退社。取締役として鹿島に入社した。
入社後の六郎は、原子力開発に尽力した。父・一郎が原子力委員会委 員長代理として原子力政策に携わっていたことも影響しているとみられる。将来のエネルギー需要を満たすために原子力が必要とされると確信した六郎は、社内 に原子力室を新設し、初代室長に就任した。役員会は巨大なリスクを懸念して反対したが、六郎は積極的に原子力分野への進出を推進した。1957年(昭和32年)に日本原子力研究所第1号原子炉を受注したのをはじめ、東京電力福島原子力発電所など多くの原子力発電所を受注した。
また、日本における超高層ビルのさきがけ・霞が関ビルの建設を主導した。
1978年(昭和53年)、鹿島の第7代社長に就任。「精神作興(せいしんさっこう:精神を奮い起こすこと)」を掲げ、TQC(Total Quality Control:総合的品質管理)をいち早く導入するなど、社内改革を推進した。また、九頭竜ダム名神高速道路などの大型案件を受注した。
オイルショック後の景気低迷や、静岡県で発覚した談合事件への批判などにより、「建設業冬の時代」と称された1982年(昭和57年)、日本土木工業協会会長に就任。建設業界の信頼と業績の回復に努めた。
1984年(昭和59年)、社長職を縁戚関係にある鹿島昭一に譲り会長に就任。1986年(昭和61年)藍綬褒章を受章した。1987年(昭和62年)5月、日本商工会議所第15代会頭に就任。第14代会頭・五島昇が病気退任するに当たり、五島の強い推薦を受けての就任であった。日商会頭としては、消費税導入にあたり、「条件付き導入」を主張するとともに、各地の商工会議所が消費税導入に反対していたのを説得した。
1993年(平成5年)ゼネコン汚職で 当時の鹿島副社長が逮捕されたことを受けて、事件との関連は否定しつつも全ての役職から辞任した。その後も、日商・東商の名誉会頭として後進の育成に当 たったほか、日伊協会会長、日独協会理事、日本・ベルギー協会理事、日墺文化協会理事、森記念財団評議員、五島記念文化財団理事、慶應工学会理事、日本英 語交流連盟(ESUJ)顧問、ジェスク音楽文化振興会理事、地球環境行動会議(GEA)相談役、日本外交協会理事、社会経済生産性本部理事などを務めた。

2005年(平成17年)12月14日午後9時41分、心不全のため東京都内の病院で死去、80歳。2006年(平成18年)1月24日、鹿島・日商・東商の合同葬が築地本願寺で営まれた。

















、、、(爆wwwwwwwwwwwwwww


おまけ







、、、(爆wwwwwwwwwwwwww

2 件のコメント:

ミネ さんのコメント...

最後の晩餐の時がくれば
このひとらは ふぐ毒にアタルとかかね、、

匿名 さんのコメント...

安西孝之