2015年2月12日木曜日

陸軍登戸研究所 子供が火薬を詰めるなど危険な兵器製造作業

登戸研究所の記憶たどる 戦争の証言 記録保存へ 02月11日(水)

登戸研究所が疎開した中沢地区での子ども時代を振り返る(左から)下島元彦さん、下島広志さん、小林さん、竹村さん=10日午前、駒ケ根市の中沢小

太平洋戦争末期に長野県駒ケ根市中沢地区に疎開した陸軍登戸研究所で働いた小林治人さん(84)ら、少年時代に同研究所について見聞きした4人が10日、同市中沢小学校に集まり、当時を振り返った。中沢地区の少なくとも3カ所の工場で容器を作って火薬を詰めるなどし、河原で爆破実験もしていたという。何を何のために作っているのか、具体的な説明がないまま、少年が兵器製造に携わっていた戦時の一端が浮かんだ。

4人は同地区出身・在住で、ほかの3人は下島元彦さん(84)、下島広志さん(86)、竹村徳男さん(85)。中沢国民学校(現中沢小)併設の中沢青年学校本科の生徒らが終戦前後に記した学級日誌が中沢小に残っている―と報じた1月3日付の信濃毎日新聞の記事を見た下島元彦さんが、日誌に名前がある人などに「記憶を残したい」と呼び掛けた。

小林さんは1945(昭和20)年4月から同研究所で働いた。主に中沢菅沼の神社を改造した第3工場で、ろうとマグネシウム、硝石を混ぜて固め、「焼夷(しょうい)弾」を作った。中沢中割にあった第1工場では旋盤を使い、金属で高さ約20センチの筒状容器を製作。同青年学校校舎を転用した第2工場ではんだ付けして火薬を詰め、雷管と導火線を付けた。ほかに集会施設なども工場になったという。

小林さんによると、主に同国民学校高等科2年の男子が第1工場、女子が第2工場に動員された。第3工場では伊那村国民学校(現駒ケ根市東伊那小)高等科の生徒らが働いた。伊那市など近隣から動員された人もいた。爆破実験は月2回ほどで、爆発音とともに河原の砂や石が3メートルほど舞い上がったという。

作った物を誰が、いつ、どう使うか、説明はなかったという。「肉弾突入(自爆攻撃)に使う」とどこかで聞いた小林さんは、「かわいそうだけど、作れと言うからしょうがない」と思っていた。

下島広志さん宅には、登戸研究所研究員と家族とみられる3人が寝泊まりした。研究員は毎日、白衣を着て出勤。あいさつや世間話はしたが、仕事内容は話さなかった。砂糖をもらったことがあり、「あの時代に砂糖があることが不思議だった」。研究所で毒入りチョコレートを作っているとのうわさがあり、その原料かとも思ったが真相は不明だ。

4人は兵隊になって死ぬのは当たり前と思っていたという。研究所でも大勢が命じられるままに兵器を製造した。小林さんは「今ならいかんと思うけれど、当時はやらねばいけないという精神だった。人間を変えてしまうんだから、思想というのはえらいもんだね」と話した。

この日は県立歴史館(千曲市)の専門主事も同席し、4人が語った内容を録音、記録。戦争の証言として保存するという。

http://www.shinmai.co.jp/news/20150211/KT150210FTI090027000.php






日本の未来を背負う年端も行かない青年を特攻させてた鬼畜大日本帝国軍部ですから今更ですね。(爆wwwwwwwwww

2 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

オイラの知り合いの親戚の卒業生の方は
戦後宗教とマルチまがいにご熱心だったそうですw

匿名 さんのコメント...

登戸 大沢南

雷属性w