9日午後1時20分頃、東京都千代田区永田町のNTTドコモ本社ロビーで、包丁を振り回している男が警備員に取り押さえられた。
警視庁麹町署は、男を暴力行為等処罰法違反容疑で現行犯逮捕した。
同署幹部によると、逮捕されたのは、板橋区の無職大山博容疑者(65)。大山容疑者は午後1時頃に同社を訪れて電話料金の苦情を申し出た際、応対した男性社員に「お前じゃ話にならない。ぶっ殺すぞ」などと言って刃渡り約20センチの包丁を振り回した疑い。包丁はズボンのベルトに挟んでいたという。けが人はなかった。「何も言うことはありません」と供述しており、同署で詳しい経緯を調べている。
2014年12月09日 21時58分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20141209-OYT1T50123.html
これまたタイムリーですな。(爆wwwww
山王ホテル(さんのうほてる、英称:The Sanno Hotel)は、かつて東京・赤坂(山王下)に存在したホテルである。
戦前においては、帝国ホテル、第一ホテルと並ぶ、東京を代表する近代的ホテルの一つであり[1]、1936年(昭和11年)の二・二六事件の舞台ともなった。戦後は連合国軍に接収され、その後も1983年(昭和58年)まで在日アメリカ軍の施設として存在した。
1932年(昭和7年)、自動車・燃料関連企業である安全自動車の経営者であった中谷保によって創業された。立地は赤坂区(当時)山王、日枝神社の南側に隣接し、皇居や国会議事堂へも至近であった。建物は、地下にアイススケート場まで備えた近代的なものであり、当時は日本を代表する高級ホテルのひとつであったとされる[2]。開業当初の部屋数は80室であったが、以後増築されて149室となった。また、欧州風の鉄筋コンクリート建築の「本館」と、和風建築の「日本館」が併設されていた。
1936年(昭和11年)の二・二六事件では反乱軍に占拠され、クーデター側の司令部となった。太平洋戦争(大東亜戦争)中には被災、終戦後の1946年(昭和21年)9月には日本を占領する連合国の一部であるアメリカ軍により接収された。同軍によって建物は改修され、アメリカ軍関係者のためのホテル、家族向け住宅[2]としての「山王ホテル(U.S.Naval Joint Service Activity Sanno Hotel)」として、同軍関係者以外の民間人や日本人の立ち入りは禁止された。
1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約が締結され、アメリカ軍によって接収されていた多数のホテルの大半が返還され、通常の商業ホテルとしての営業を再開した。だが、山王ホテルはその後もアメリカ軍の専用施設として供与され、日本政府が所有者(安全自動車ら)に、土地・建物の使用料を支払い続けた。
日本政府は1975年(昭和50年)12月に在日アメリカ軍との間で、5年以内に山王ホテルを所有者に返還することを骨子とする合意を得たが[2]、返還後アメリカ軍に供与予定の代替物件(ニュー山王ホテル)は、港区南麻布の安立電気本社跡地を敷地として確保した1981年(昭和56年)6月に至るまで着工されなかった[2]。1983年(昭和58年)、アメリカ軍向けの新施設が完成、旧山王ホテルは1983年(昭和58年)10月5日をもって閉鎖された
安全自動車(あんぜんじどうしゃ)は、東京都港区に本社を置く、自動車整備部品製造販売を主な業務とする株式会社である。代表取締役は中谷宗平。
創業から1983年(昭和58年)までは、クライスラー系のダッジとインペリアル、ドイツのNSU各車の輸入総代理店として知られた。第二次世界大戦直前にはダッジをベースにした国産乗用車・日光号を製造したり、戦後の外車輸入制限時代には子会社「安全トヨペット」でトヨタ乗用車を販売した。バスボディなど自動車車体製造も手がけていた。現在は、主な事業を自動車整備機器の製造に移行している。
1918年(大正7年)5月、初代会長中谷保がアメリカより帰国し、輸入自動車販売および自動車関連産業を事業目的として東京市赤坂区溜池町(現在の港区)に創立。同時に、ライジングサン石油会社(現在の昭和シェル石油)と特約を結び、日本初となるガソリンスタンドを設立、石油販売の先鞭をつけた。一方、東京代々木に工場を建設し、消防自動車制作、整備用機器、自動車部品の製作を開始。1927年(昭和2年)3月には米国ダッジブラザーズ会社(現在のクライスラー社)と代理店契約を結び、日本総代理店として国内各地に販売拠点を設けた。1934年(昭和9年)には東京芝浦に貨物および乗合自動車の車体製作工場を建設、1938年(昭和13年)にはクライスラー系の輸入元であった八洲自動車、京都工商と共に共立自動車製作所を設立し国産乗用車「日光号」を製作販売したが、戦時体制強化によりこの計画はまもなく頓挫する。1945年には戦災により本社、営業所、工場等を焼失したが、1949年(昭和24年)にクライスラー社との代理店契約を復活させ、輸入自動車販売を再開した。また、1967年(昭和42年)から1970年頃まではドイツ・NSU社の日本総代理店となり、同社製世界初のロータリーエンジン搭載市販車であるヴァンケルスパイダーや先進的な4ドア車Ro80などを少数だが正規輸入した。
1972年(昭和47年)4月に東京都港区元赤坂に安全ビルディング(地下1階、地上11階)を、1974年(昭和49年)1月には隣に第二安全ビルディング(地下1階、地上13階)を竣工させ、本社機能を移転。1993年(平成5 年)3月には本社を港区芝浦に再度移転。現在は自動車輸入販売からは撤退し、車検機器システム(「ラインマスター」ブランド)・足廻り整備機器(「バト ラー」ブランド)・自動車整備用機械工具・車体整備機械工具・コンピュータ自動車整備管理システム・環境整備機器・各種洗浄システム・特殊機器設計製作販 売及び不動産賃貸業を行っている。
毒ラインですな。(爆wwwwwwwwwww
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New Sanno U.S.Force Center
http://tokumei10.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7843.html
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