2014年11月5日水曜日

東清鉄道こと中東鉄道、東支鉄道、北満鉄路あるいは北満鉄道

ハルビン聖心天主教堂(はるびんせいしんてんしゅきょうどう、中国語簡体字哈尔滨圣心天主教堂)は中国黒竜江省ハルビン市にあるカトリック教会であり、司教座聖堂。正式にはハルビン・イエス聖心主教座堂(簡体字哈尔滨耶稣圣心主教座堂)と呼ばれ、黒龍江教区の中心的な存在である。

概要

ハルビン聖心天主教堂の設立の経緯は次の通り。[1]

  • 1900年ごろ - 東清鉄道の建設に伴って、ポーランド人が多数ハルビンに来て働き、その大多数がカトリック信者であった
  • 1906年 - 聖堂の建設を始め、1907年に落成し、ハルビン・イエス聖心天主教堂として献堂。「ポーランド天主教堂」とも、「東大直街天主教堂」呼ばれた
  • その後、ロシアサンクトペテルブルクウラジオストック、中国の北京、吉林教区の管轄下と変遷している
  • 1959年 - 黒龍江教区が成立して、その主教座教堂となる
  • 1966年 - 文化大革命中にほぼ完全に破壊された
  • 2004年 - 新たに建て直された



ハルビン南崗キリスト教会 (はるびんなんこうきりすときょうかい、簡体字哈尔滨南岗基督教会)はハルビン市内にあるプロテスタント教会で、1919年に建設された由緒ある建築で、この地域のプロテスタント教会の活動中心のひとつになっている。

ハルビン南崗キリスト教会はハルビン市内にあるプロテスタント教会で、この地域のプロテスタント教会の活動中心のひとつになっている。住所はハルビン市南崗区東大直街252号で、ここは紅博広場から北東へ東大直街をいったところの「教会通り」にある。
1919年に建設された由緒ある建築で、この地域のプロテスタント教会の活動中心のひとつになっている

沿革

  • 1901年、東清鉄道の 進行に伴い、ハルビンにドイツ人が来るようになり、この近くにバプテスト教会を作ったのがハルビンのプロテスタント教会の始まり
  • 1914年、ここにドイツ人がルーテル教会を設立
  • 1916年、ルーテル教会が現在の教会建物(尼埃拉依教堂と呼ばれた}を建設 [1]
  • 1967年、閉鎖
  • 1980年、礼拝を再開

生神女庇護聖堂 (ハルビン)

ハルビン生神女庇護聖堂(はるびんせいぼしゅごきょうどう、簡体字哈尔滨圣母守护教堂または、簡体字哈尔滨圣母帡幪教堂)は、中国黒竜江省ハルビン市にある中華東正教会(中国正教会)の教会。生神女庇護祭を記憶する聖堂であり、世界中にある生神女庇護聖堂日本正教会による定訳)の一つである。黒龍江省内の正教会では唯一教会活動が行なわれている。
当聖堂にはハルビン聖母守護教堂ウクライナ教堂、ウクライナ教会聖母守護教会聖母帲幪教会中華東正教会ハルビン教会などの別称・表記が存在する。日本語のみならず中国語でも表記には様々なものがある。
ロシア語では"Церковь Покрова в Харбине"と呼ばれている(英語ではChurch of the Intercession in Harbinと表記されうる)。ウクライナ人の参加が多かったため「ウクライナ教堂」とも呼ばれていた。中国本土に現存する唯一のビザンチン様式の正教会の聖堂(Русский стиль правослвных храмов в Харбине}である。


現在は三自愛国運動の影響を受けた中華東正教会(中国正教会)の主要教会である。ハルビン市内の正教会で唯一教会活動が行なわれているところである。毎週日曜日午前のみならず、復活大祭クリスマスなどの祭日には信徒が祈祷を行っている。

沿革

[1]
  • 1902年、ロシア人墓地に付属する祈祷所が建設された。
  • 1922年、中東鉄路の建設、義和団の乱日露戦争に際して亡くなったロシア人たちの霊を守護するため、中東鉄路局の出資により木造の教会堂を起工。11月落成。
  • 1930年、中東鉄路局が費用を負担して、Yu. P. ジダーノフ(Ю. П. Жданов)の設計による現在の石造りの教会堂が完成。
  • 1947年まで、おもにウクライナ人の教会であった
  • 1958年以降、ロシア系住民の出国者が増えたため活動は低調になり、1965年に教会は閉鎖される。新華書店、サーカス場などとして利用される。文化大革命の時期には朱世僕司祭は長期にわたりハルビン市内の釘工場で労働改造処分を受ける。
  • 1984年10月14日、生神女庇護祭の日にあわせて教会活動を再開。
  • 2000年9月、朱世僕司祭が逝去し、それ以来現在に至るまで神品 (正教会の聖職)を持たずに活動している。

住所は、ハルビン市南崗区東大直街268号で、敷地面積は3,000平米。市内南崗区の「紅博広場」(ここに聖ニコライ中央聖堂、別名:喇叭教堂、写真は英語ページHarbin Russiansに)から東北方面へいった東大直街にあり、そこは「教会通り」になっていて、この教会のすぐ東にプロテスタント教会(ハルビン南崗キリスト教会)があり、向かいにカトリック教会(ハルビン聖心天主教堂)もあり、少し離れて仏教極楽寺もある。



東清鉄道(とうしんてつどう)はロシア帝国満洲北部に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河へと続く本線と、ハルビンから大連を経て旅順へと続く支線からなる。時代に合わせて中東鉄道、東支鉄道、北満鉄路あるいは北満鉄道と呼ばれていた他、ロシア側でも呼称は数度変更されている。
東清鉄道は、現在の中国の鉄道路線のうち浜洲線(ハルビン-満洲里)、浜綏線(ハルビン-綏芬河)、哈大線(ハルビン-大連)の各路線に相当する。

ロシアによる敷設権獲得

ロシア帝国1891年2月にシベリア鉄道建設を正式決定し、5月よりその建設に着工した。ロシアは、日清戦争1894年7月 - 1895年3月)直後の日本による遼東半島の領有を三国干渉1895年4月23日)によって阻止しており、その見返りとして清国李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた(露清密約1896年6月3日)。その中でロシアは、建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線としてチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る鉄道の敷設権を獲得し、1896年12月露清銀行によって「中国東方鉄道株式会社」(ロシア語:Китайская Восточная железная дорога、略称:КВЖД)、清朝側の名称では「大清東省鉄路」という鉄道会社が設立された。経営の最高機関は、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに 置かれた理事会で、ロシア大蔵省が理事を任命した。このように、表向きは露清合弁であったが、ロシアの発言権が強く、清朝は経営に直接関与できなかった。 この時、露清銀行から供与された資金は、フランスの投資家からロシア政府に貸し付けた4億ポンドからのもので、これによって露仏同盟が結ばれた[1]

建設

1897年にルートが選定され、東清鉄道本線は満洲里からグロデコヴォ間1510kmで、シベリア鉄道と連結させるために西側は満洲里とキタイスキ・ラズエズトーを結ぶザバイカル鉄道355km(完成1901年)、東側はグロデコヴォニコリスク・ウスリスキーを結ぶウスリー鉄道97km(完成1903年)の建設も決定された。
工事は翌年から開始された。1897年ウスリー線ウラジオストクハバロフスク)が開通、さらに1898年3月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルビンから大連、旅順に至る南満洲支線の敷設権も獲得した。続く1898年には中部シベリア線(オビイルクーツク)、1900年にはザバイカル線(ムィソーヴァヤスレチェンスク)もそれぞれ開通し、シベリア鉄道全線開通まで残るはアムール線(スレチェンスク〜ハバロフスク)およびバイカル湖周辺のみとなっていたが、そのどちらも地勢が大変険しく建設が困難な状況であった。南満洲支線772kmも1903年1月に完成している。

日本への一部譲渡

最後の大興安嶺トンネルが完成し、シベリア鉄道と完全に連結したのは1904年2月、日露戦争勃発直前であった。その後日露戦争(1904年2月 - 1905年9月)が勃発し、1905年9月5日ポーツマス条約により長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)となった。1911年辛亥革命によって中華民国が成立しても、ロシアによる東清鉄道の利権は継承された。

ソ連による利権の継承

1917年ロシア革命後、ペテルブルクの理事会は機能を停止し、現地の最高責任者であるホルヴァート管理局長が実権を握った。彼が1920年に中国軍に放逐されると、奉天軍閥が影響力を強める。また1919年から1922年にかけては、日米などが参加した連合国鉄道管理委員会がその経営に干渉した。特に、ハルビンに駐在した委員会技術部長のスティーブンスは、革命後の混乱した経営の立て直しに辣腕をふるった。
ソ連も、1919年の第一次カラハン宣言でいったんは東清鉄道を放棄することを表明したにもかかわらず、方針を転換させ、北京政府奉天軍閥に経営への参入を粘り強く求めた。1924年5月、中ソ両国は国交回復のための協定に調印し、この中で東清鉄道の利権を確認した(北京協定)。また同協定に不満を持つ東三省張作霖政権は北京政府とは別に、同年9月奉ソ協定を結んだ。1925年1月20日日ソ基本条約が締結された。
1928年張作霖爆殺事件
1929年7月、張学良はソ連側の協定違反を理由に鉄道権益を武力回収を試みるも、ソ連軍の攻撃に敗北した(中ソ紛争)。勝利したソ連は、1929年12月に結ばれたハバロフスク議定書zhru)で、回収された利権の原状回復を認めさせ、鉄道の運行も翌年から平常化した。一方、国民政府は議定書を奉天軍閥の越権行為と見なし批准しなかった。そのため、中ソ両国の直接交渉がモスクワで始まり、中国側は鉄道の売却を迫ったが、1931年満洲事変の勃発により交渉は打ち切られる。

満洲国への売却

1932年に満洲国が成立すると、ソ連は満洲国を承認しなかったものの、東清鉄道は事実上の満洲国とソ連の合弁となり、1933年には満洲国交通部がその名称を北満鉄路に変更した。日本はソ連との衝突を避けるため鉄道の売却を提案したが両者の間で長らく価格で折り合いが付かず、ようやく1935年3月になってソ連は北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。こうして旧・東清鉄道は満洲国有鉄道となり、経営は満鉄に委託された。また、軌間1937年まではロシア建設時の広軌(1,520mm)であったが、満鉄に合わせて標準軌(1,435mm)に改軌された。

ソ連の対日参戦と戦後

1945年8月、ソ連が対日参戦し満洲に侵攻すると、北満鉄路および南満洲鉄道を接収し、これらを併せて中国長春鉄路とした。また同月、ソ連は蒋介石政権と中ソ友好同盟条約を結び、同鉄道を30年間共同使用することを認めさせた。

しかし1949年共産党政権が成立すると、その翌年に同盟条約を改訂し(中ソ友好同盟相互援助条約)、その付属協定「長春鉄道・旅順・大連協定」により、長春鉄道の中国側への返還が決定された。





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