大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)は、吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する、修験道の修行の道。
2002年(平成14年)12月19日、国の史跡「大峯奥駈道」として指定された[1]。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年〈平成16年〉7月登録)の一部[2]。
大峯奥駈道は、奈良吉野山と熊野三山を結ぶ、もとは修験道の修行場として開かれた道であり、熊野古道の中で最も険阻なルートをなす。今日、一般的に大峰山(大峯山)といえば山上ヶ岳を指すが、大峯奥駈道でいう「大峯」とは、吉野から山上ヶ岳を経てさらに奥の山々、そして最終的には熊野三山に至る大峰山脈を縦走する修行の道全体を指している。
大峯奥駈とは本来、大峯山寺より奥の「靡」に進むことを奥駈と云われていた。修行場は「靡」(なびき)と呼ばれ、ひとつひとつに番号が割り当てられている。すなわち、熊野本宮大社の本宮証誠殿(1番)にはじまり、吉野川河岸の柳の宿(75番)に終わる。この大峯七十五靡は75箇所を数えるが、これは歴史的に整理されてきた結果であり、もっと多くの靡が設けられていた時期もある。
順峯と逆峯
これら行場を巡る方法には2つの方法が知られている。ひとつは、本宮から吉野に向かう順峯(じゅんぷ)、他方は、逆に吉野から本宮に向かう逆峯(ぎゃくふ)で、それぞれに主宰する宗派が異なる。順峯は天台宗系の聖護院(本山派)が、逆峯は真言宗系の醍醐寺三宝院(当 山派)がそれぞれ主導する。中世の熊野を支配し、熊野詣の先達をつとめたのは天台宗系の本山派であり、大峯奥駈についても本山派が先行していたが、近世以 降の熊野詣の衰退に伴って、江戸時代から今日まで、両派とも吉野から入るのが一般的かつ正統的なものとされている。ただ、中世の熊野詣を主導した天台宗系 による順峯は、那智山青岸渡寺によって復興され、今日でも行われているので、完全に途絶したわけではない。水場が乏しいこともあって、前鬼宿(奈良県下北山村)太古の辻以南の部分(南奥駈と呼ばれることもある)はたどられないことが一般的であり、現在でも大峯七十五靡を踏破する奥駈の行をおこなう寺院は限られている。
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1 件のコメント:
熊野古道で地蔵の頭が落下
www3.nhk.or.jp/lnews/tsu/3074586441.html
世界遺産に登録されている熊野古道の、三重県熊野市の峠道にある地蔵の頭の部分が地面に落下しているのが見つかりました。
管理する熊野市教育委員会は、19日の地震で落下したみて、修復を急ぐことにしています。
熊野市教育委員会によりますと、熊野古道の松本峠にある高さおよそ1メートル80センチの地蔵の首から上の頭の部分が地面に落下しているのを、20日、観光客を案内していた語り部の女性が見つけました。
頭の部分は高さ30センチほどで、背中側の地面に落ちていて、割れたり破損したりした跡はなかったということです。
19日、和歌山県を震源とする地震で熊野市では震度3を観測していて、胴体の上に固定されずにのっていた頭の部分が揺れで落下したとみられるということです。
この地蔵は江戸時代に作られたとされ、妖怪と間違えて鉄砲で撃たれたという言い伝えがある傷が残り、松本峠のシンボルとして観光客などに知られています。
教育委員会では石材業者に依頼し、年内にも修復することにしています。
熊野古道松本峠で語り部をしている向井弘晏さんは「松本峠の貴重なシンボルで、これを見に来る人も多いので、痛ましい姿を早く修復して元通りにしてほしい」と話していました。
11月21日 17時50分
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